こんばんは。精神科通いのバ美肉ブロガー、次無ゼッカです。
「メンヘラに人は救えない」。
これは、わたしが精神科に通う最後の一押し……トドメになった一言です。
第3回の療養記録で少しだけ触れましたが、陰口やネット上での人間関係のトラブルが重なっていたところに、不意に読んでしまったものです。
トドメとなっただけあって、わたしの心に深く突き刺さっていて、ずーっと引きずっている言葉です。
しかし、引きずっているなりに、少しは立ち直ることはできました。ずっとつきまとってくる呪いの言葉ですが、一生付き合う心構えもできました。
今回は、そんなトドメの言葉と、そこからの立ち直りについての話です。

「メンヘラに人は救えない」
「メンヘラに人は救えない」。
この言葉にわたしの心が壊されたのは、2025年11月下旬のこと。
親しいと思っていた相手から陰口をたたかれ悩んだのが9月、11月上旬にはその相手から暴言を吐いたと濡れ衣を着せられ、わたしは、それらについての悩みを不適切な形でSNS上に書いてしまいました。
そのトラブルの相手からの言葉です。
この言葉が書かれていたのは相手方のブログです。トラブルのさなかに書かれたもので、特定個人に向けたものではないという前置きがありました。
しかし、タイミングを考えれば、その対象には、わたしも含まれると捉えるのが妥当でしょう。
トラブルについて、相手方とやりとりをして、いったんの和解となった当日に更新されたブログに書かれていたのが「メンヘラに人は救えない」でした。
これを読んだことがトドメとなり、わたしは精神科受診を決意するにいたる程度に具合を悪くしました(受診の結果、うつ状態と言われたのは以前書いた通りです)。
なぜこれがトドメになったのか
わたしにとっては、今なお引きずるクリティカルなトドメでした。
「もうダメだ」と心が壊れる瞬間を自覚するほどの言葉でした。
しかし、他人からしてみれば「そんな一言でうつになるなんて、大げさだ」と思われることでしょう。
わたし自身、冷静に考えると、大げさだと思う部分も無いではないです。
では、なぜ、この言葉がわたしにとってのトドメになり得たのでしょうか。
発言者の立ち位置
2025年11月当時は発言者とトラブルになっていたとはいえ、そこに至るまでおよそ1年半、わたしはその人物の役に立つべく、あるいは助けになるべく、寝食を削り心を砕いて行動をしていました。
これまでの人生で唯一、「がんばった」と自分で思えるぐらいに心血を注いでいました。
その相手から言われたというのが、大きかったと思います。
助けたかった相手から「メンヘラに人は救えない」と言われたわけです。ついでに「メンヘラ」呼ばわりです。
まあ、実際に精神病者ではあるのですけどね。HAHAHA!
(ここ、笑いどころですよ?)
助けたいと思って行動してきたこと、人生で初めての「がんばった」をすべてを否定される形になったわけで、これだけでも威力十分です。
メサイアコンプレックス
わたしは誰かの役に立ちたい、助けになりたいという動機で行動する場面が少なからずあります。
価値のないわたしという人間が、誰かの役に立てるのなら存在意義がある。
誰かを助けられるのなら、価値がないくせにのうのうと生きているという罪悪感を払拭できる。
・・・・・・”メサイアコンプレックス”と呼ばれる心理状態であると、後から知りましたが、それがわたしという存在です。
(メサイアコンプレックスに向き合おうという主旨の記事は後日書くつもりです)
誰かの助けになりたいのに、「メンヘラ(わたし)に人は救えない」と突きつけられれば、存在意義を見失うというものです。
タイミング
タイミングもばっちりでした。
当該ブログの更新は、トラブルについて、いったん和解できた話し合いを終えて、当日すぐのことでした。
心が弛緩したところでしたから、その瞬間のわたしはあまりに隙だらけで、威力のある言葉を受け流すことのできない無防備なタイミングでした。
和解したと見せかけて、油断したタイミングを狙いすました見事な一撃です。惚れ惚れします。
見事なお手並み
「メンヘラに人は救えない」というのは、わたしにとってみれば呪いの言葉でしかありませんが、そのフレーズと活用は美しいと感じます。
わたしの心を壊すという観点からすれば、立ち位置を活かした言葉選びもタイミングも、大変に素晴らしかったです。お手並み見事というほかありません。
短いフレーズで、大いに人の心を揺さぶるのですから、誇るべき文才です。
嫌味ではなく、純粋にそう思います。
人格の否定、がんばりの否定、生き方の否定、存在意義の否定……わたしという人間の心をこれ以上なく的確に抉り、深く突き刺さりました。
うつ状態が落ち着いて、時間が経過した今でも、なお引きずり続ける呪いになりました。
本当に見事なお手並みです。感心しきりです。
あまりに見事な一撃でしたから、喉元を過ぎた今となっては、爽やかさすら感じます。
言葉から受けた影響
突き刺さったまま抜けない鋭い言葉ですから、当然、その影響というものがあります。
うつ状態と診断されるまでに気分が落ち込んだのが影響の最たるところです。
その中でも細かく言えば、仕事や夫婦関係には直接的に影響がありました。
仕事への影響
わたしの職業は、大ざっぱに言えば、高齢者福祉に携わるものです。
人の役に立ちたい、助けになりたいという思いもあり、長年続けているものです。
(他の仕事に適性がないからという消極的な理由もありますが)
関わる相手が高齢者であることから、死別を経験することも多い職業です。
「また来月」と言ったきり会えなかった人、あんなによくしてくれたのに最後は孤独死だった人、前週に笑顔で別れたのに急死してしまった人・・・・・・そんな別れがたくさんあります。
もっと何か出来たのではないか、会った時にもっと話していればよかったのではないか。
死別の度、後悔をします。そういう仕事です。
「メンヘラに人は救えない」と言われて、後悔の残る別れになってしまうのは、わたしが人を救えないメンヘラだからではないかと、うつ状態の頭で随分悩んだものです。
「あの人の病気が急に悪くなったのは、メンヘラであるわたしの所為」。
「あの人の心不全も、メンヘラであるわたしが関わった所為」。
そんな風に考えてしまっていました。
「メンヘラに人は救えない」のなら、わたしが福祉に関わってはいけないのではないかと、当時から今に至るまで、ずっと悩んでいます。
仕事を辞めるか悩んでいると上司に打ち明けてはいますが、それはそれとして人手の足りない職場ではあります。
現実問題として辞める訳にはいかないので働き続けていますが、やはり葛藤はあります。
夫婦関係への影響
わたしが役に立ちたいと思う対象には、妻も含まれます。
わたしなんかを拾ってくれた妻ですから、恩返しをしたいし、幸せに生活してほしいと思っています。
だからこそ、日々の家事の大半などなどはわたしが担当していますし、1日1回は笑ってもらえるように毎日なにかしらのジョークを言ったりする生活をしていました。
しかし、わたしというメンヘラが人の役に立たないと突きつけられたことで、夫婦間のコミュニケーションにも影響がありました。
(そもそもがうつ状態で妻と話せなくなったというのはありますから、そりゃまあ影響はあるでしょう・・・・・・というのはさておき)
役立たずのわたしが妻のそばにいてよいのか、仕事のこと以上に悩みました。
不必要にネガティブなことを書く場ではありませんから、詳細は割愛しますが、”離婚”の2文字が頭の中にずっとありました。
わたしがジョークを言えなくなっても、妻は毎日のように自分で楽しいことを見つけて笑っていました。
わたしがいなくとも、妻は笑顔になれるのです。
わたしの存在意義をつないでくれたのは、鬱々とした気分を紛らわすように行っていた毎日の家事でした。
日々の雑事をこなしている限りは、使用人程度には存在が許されるはずですから。
精神科に通い始めてから4ヶ月ほどが経った頃、ようやく一言二言の会話ができるようになり、「自分の存在は許される?」と訊く機会を持ちました。
妻は驚いたように「許されるよ! 当たり前じゃん!」と返答してくれました。
そこから徐々に、日常会話ができるようになっていき、今年の5月には、うつに至るまでの経緯を話すこともできました。
その後は、折に触れて「(夫婦間の)ラブラブっていうのは、役に立つかどうかは関係ないからね」と声をかけてくれるようになりました。
立ち直り
頭から離れない「メンヘラに人は救えない」ですが、ずぅーっっっと繰り返されているおかげか、心の傍に居続けることに慣れてきました。
引きずってはいるものの、苦しくなる頻度は徐々に減っています。
少しは立ち直ることができたと言っても差し支えないでしょう。
「命ならいくつも救ってきた」
その立ち直りまでに心を支えてくれたセリフがあります。
うつ状態のなか、無感動になっている自分をどうにかしようと、毎日、家にあるDVDを観て過ごしていた時期がありました。
そのなかの1本である「平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦feat.スーパー戦隊」のセリフが、心の支えになりました。
けが人の緊急手術を手伝った乾巧(仮面ライダーファイズ)に、神敬介(仮面ライダーX)が「人を救った気分はどうだ?」と問いかけるシーンがあります。
この問いに、巧は「命ならいくつも救ってきた」とぶっきらぼうに答えます。
このシーンに至るまでに、巧は救えなかった命や生き残ってしまった自分に悩んでいました。その彼の口から出たセリフです。
「メンヘラに人は救えない」と否定され、仕事で死別してきた人たちのことで悩んでいたわたしには、救いになるセリフでした(当該シーンでは巧の迷いは吹っ切れていませんが)。
わたしというメンヘラでは、救えなかった人はたくさんいるかもしれません。
一方で、「次無さんがよくやってくれたから、母は穏やかに生活できました」「いつもありがとうね。次無さんがいてくれて助かってるよ」というような言葉を頂くことも少なくありません。
そうなのです。
わたしもまた、「命ならいくつも救ってきた」はずなのです。
今も仕事中に「メンヘラに人は救えない」を思い出して苦しくなることがあります。
そんなときは、巧のセリフを併せて思い出すようにしています。
うつ状態で苦しむわたしの心を支えてくれた、これ以上ない、まさに”ヒーロー”のセリフです。
救えなくても救いたい
立ち直るにあたって、一種の開き直りともいえる気持ちも持っています。
「メンヘラに人は救えない」のだとして、それでもわたしは誰かの役に立ちたいし、助けになりたい、と。
「メンヘラに人は救えない」というのは、やや主語は大きいものの、部分的には間違いないことでしょう。
実際問題として、メンヘラに人は救えないというのは認めざるを得ません。
あれだけがんばっても、発言者の助けになれなかったのは確かなわけですから……。
つい最近、精神科の薬が原因で献血を断られたばかりで、メンヘラは人を救おうとする行動すら制限されるというのも痛感しました。
メンヘラであるわたしは人を救えず、わたしは人類にとっての役立たずであるというのは、肝に銘じるべきことです。
(メンヘラにできないというのなら、健常者がそのぶん人を救ってくれと思ってしまうのは、わたしがメンヘラだからでしょう)
しかし、メンヘラでも人を救いたいのです。
呪わしいことに、わたしは誰かの役に立つことに喜びを感じてしまいます。
これがメサイアコンプレックス由来のものだと知っても「やらない善より、やる偽善」と思って、どうしたら他人の役に立てるかと考えてしまいます。
「メンヘラに人は救えない」と言われてなお、福祉の仕事は続けていますし、妻との夫婦関係も継続しています。
正しい形で人の役に立てるよう、現在はメサイアコンプレックスという心の歪みをどうにかしようと試行錯誤しています。
救えないと言われても、救おうとすること自体は悪ではないはずです。
心の歪みをどうにかしたいというあがきは愚行かもしれませんが、立ち直りの過程であることも認めて頂きたいです。
おわりに
以上、「メンヘラに人は救えない」という言葉が突き刺さったという話、そこから立ち直りつつあるという話でした。
うつ状態へのトドメの一言として、あまりにもクリティカルな言葉でした。
この件以前から双極性障害だったかもしれないので、精神科受診のきっかけをくれたという点では、感謝すべき言葉かも知れません(と、なるべくポジティブに捉えておきましょう)。
さて、記事内で何度も繰り返した「メンヘラに人は救えない」というフレーズですが、過去のSNSでの発信によれば、発言者はこの言葉を流行らせたかったらしいです。
そういうことならと、せっかくブログという発信媒体があるので、発言者の望みを汲んで、こうして記事で取り上げました。
わたしにとっては、どうせ頭から離れることのない呪いの言葉ですから、流行ろうと廃れようと今さら影響は受けません。
これからも、この言葉と共に生きていくほかありませんし、キズはキズとして受け入れて立ち直りに向かっています。
この言葉を流行らせるために、ここまで読んでくださった方におかれましては、よければ、折に触れて「メンヘラに人は救えない」という言葉を使ってみてください。
(まあ、メンヘラだなんて一種の罵倒語は、他人に向けてよい言葉ではないと思うので、使う人はいないでしょうが)
立ち直りつつあるということを書けて、療養記録としては一区切りになります。
次回は「メサイアコンプレックスと向き合おう」というような内容を書けたらと思います。
今回はここまでです。お読みいただきありがとうございました。
みなさま、どうかよい夜をお過ごしください。


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