recovery009 メサイアコンプレックスと向き合おう(1)

こんばんは。精神科通いのバ美肉ブロガー、次無つぐないゼッカです。

前回までの療養記録で、うつ状態に関しての話が一段落しました。
そこで今回は、うつとは分けて考えるべき療養の話をしたいと思います。
(うつ状態に至るまでの原因には関わっているので、無関係ではありませんが)

なんの話かといえば、メサイアコンプレックスについてです。

わたしの心理状態が、この言葉の指すそれとほぼほぼ一致しているのです。


うつ状態が落ち着いた今、次に向き合うべきは、このメサイアコンプレックスだと考えています。

さて、まずはメサイアコンプレックスとは何かという話をしなければなりません。
わたしは精神医学や心理学の専門家ではありませんから、あくまで本やweb上の情報をまとめた聞きかじりの内容になることをご了承ください。

メサイアコンプレックスは、心の奥底の劣等感などが入り混じり「自分が救われたいから他人を救う」というコンプレックスです。
このコンプレックスをもとに起こした行動は、他人からすればありがた迷惑に感じることが多く、助けられる側からすれば自己満足であることが目に見えるものだそうです。

web上のAIがまとめた概要によれば、「他者を救うことで自身の自己肯定感や存在価値を満たそうとする心理状態」となっています。

また、「自分が救われたいから他人を救う」=「本当に相手のことを思っているわけではない」ので、手助けを断られると、不機嫌になったり、場合によっては攻撃性が現れるものです。

わたし自身にあてはまる形に言い換えれば、「人助けをすることで、罪悪感や劣等感を払拭しようとする心理状態」です。

わたしの場合は、助けようとした相手との関りの中で心身に不調をきたし、SNS上で不適切発言をして、助けたかった相手に大迷惑をかけるという結果となりました。

「メンヘラに人は救えない」という拒絶トドメの言葉で、精神科のお世話になるまでに具合を悪くするというおまけ付きです。

結果的に、自分も他人も不幸にしています。
そんなコンプレックスに振り回されているのですから、当然、健全な状態ではありません。

ですから、メサイアコンプレックスというものを知ってからは、これをどうにかしようと試行錯誤しています。

自分の心理状態がメサイアコンプレックスと呼ばれるものだと気づいたのは、2026年6月末頃のこと。

その頃は躁状態だったのか何なのか、夜に眠ることができない日が数日続いていました。
どうせ眠れないのならばと、普段は本を読めないくせに、この時ばかりは、昔読んでいたマンガを読み返す時間を持ちました。

そこで読んだのが「めだかボックス」なのですが、作中でほんの少しだけメサイアコンプレックスについて触れる場面がありました。

作中での解説では、わたしの「罪悪感と劣等感を払拭するために人助けをする」とは一致しなかったのですが、不思議と引っかかりを覚えたのです。

変に心に引っかかり続けた為、後日に、web検索でメサイアコンプレックスについて調べました。
そうしたところ、自分の心の中を覗かれているのかと思うほど、少し気持ち悪くなるほど、自身の内心や動向に当てはまることが書かれていたのです。

自分の心理状態が不健全なものであるということを知り、「自己満足」「他人のことを考えていない」「自分も他人も不幸にする」と書かれていたことに少なからずショックを受けました。

他人を助けたいというアイデンティティの否定に数日へこんでいましたが、しかし、自己覚知のよい機会です。
自分の歪みに名前がついていると知ったのなら、治し方もきっとあるはずと、気を取り直しました。

ここからが本題です。
メサイアコンプレックスという自分の心の歪みが他人に迷惑をかけるものだと知った以上、それを正さねばなりません。

一朝一夕でどうこうなるものではありませんが、ここのブログ名にもしている「人間として生きたい」を叶えるためにも、必要なことです。

今すぐ治るものではありませんが、今すぐに取り掛かれることはありますから、最近はそれらを試しています。

メサイアコンプレックスについて、web上の情報を参考にする中で、治し方のひとつに「自分がメサイアコンプレックスであることを自覚すること」というのがありました。

これは今すぐにでも始められることです。
何ならば、自覚するというだけなら、既にしています。

試してみて、なるほどこれは効果的です。
誰かの役に立ちたい、助けたいと思う時には、あわせて「でも、それは自己満足では?」「だって、わたしは偽善者でしょう?」と考えるようにしています。

それが本当に相手の為を思ってのことではないと自覚すれば、他人を助けようとする手も一瞬止まります。

一呼吸を置いて、結果として自他共にボロボロになる関わり方はすべきでないと判断するのか、「やらない善より、やる偽善」と思って行動するのかを、落ち着いて選ぶようになりました。

自身の心の歪みについて自覚したのなら、その次の段階は、その原因について考えることです。

わたしの「罪悪感と劣等感を払拭するために人助けをする」という行動のもとになっている罪悪感はどこからきているのか、ということです。

人間は誰しも、生きていれば誰かを傷つけることはあります。
そして、誰かを1度でも傷つけたことがあるのなら、2度と清廉潔白に生きられないわけですから、抱えている罪悪感に心当たりというのは当然あります。

「小学校の時、○○くんの手をカッターで切ってケガをさせてしまった」
「中学の時、不意に掃き出し窓を開けたことで、××くんを転ばせてしまった」
「高校の時、クラスメイトがせっかくお土産を買ってきてくれたのに、ケチをつけるようなことを言ってしまった」

「大学の時、初恋の人との距離感を間違えて、怖がらせてしまった」
「新社会人の時、工具を取り落として□□さんの家の床に傷をつけてしまった」

などなど。
不出来なわたしですから、過ちは数知れません。

このような形できちんと言葉にできるものもあれば、漠然と誰かに申し訳なく思う気持ちも常に抱えています。
先に挙げた「助けたかった人に大迷惑をかけた」というのも、行動の結果の罪悪感として、抱えていかなければならないものです。

しかし、考えを巡らせるうちに、より根本的な部分に、もっと抽象的な罪悪感があることを発見しました。

無価値な自分が、呑気にのうのうと生きていることへの罪悪感です。

そもそもは自分に価値がないという劣等感の上に構築された罪悪感です。
わたしのように無価値な人間が幸福や日常を享受している間に、どこかの誰かが不幸な目に遭っていることに対する申し訳のなさです。

わたしは無意識に、人助けをすることで、それらを払拭しようとしていました。

罪悪感の正体に見当がついたところで、それを刺激されれば、平静さを失って、コンプレックスに突き動かされてしまうことがわかりました。

メサイアコンプレックスと向き合って、治していくにあたり、まずは平静な状態を維持することが必要です。

その為に、罪悪感や劣等感を煽るような人たちと距離を置くべきだと判断しました。

SNS時代の昨今ですから、インターネットの普及していなかった子どもの時分に比べて、いろいろな人の人生を垣間見る機会が増えました。
その中には「私はこんなに不幸な生い立ちなんだ!」「私はこんなに可哀想なんだ!」と喧伝する方々もいます。

目的はさまざまかと思います。
不幸で可哀想だから、というのを同情を買うための材料にしている人もいるでしょう。
不幸で可哀想だけど、それでもがんばって前向きに生きていると発信する人もいます。

ポジティブな発信も、ネガティブな発信も、どちらもあります。

ですが、わたしにとっては、それらから得る結果はどちらも同じです。
不幸さや可哀想さを見聞きしてしまった時点で「あなたはそんなに不幸で可哀想なのに、わたしのように無価値な人間が不幸になっていなくて、ごめんなさい……」と罪悪感を刺激されてしまいます。

リアル・ネットを問わずに、そういった発信をする人とは距離を置くことが、心の平静の為に必要です。
平静さを失っていては、己のコンプレックスと向き合ってなどいられません。

仕事で関わる人の中には、そういうタイプの人もいるので、まったくのゼロにはできませんが、気をつけるようにしてからは、だいぶ落ち着いて物事を考えられるようになりました。

罪悪感の大元が、自分の無価値さという劣等感である以上、これを解決しないことには根本的に治すことはできません。

しかし、残念なことに、わたしが無価値であるというのは、現時点では動かしようのない事実です。
妻を始めとして、わたしに何かしらの”価値”を見出してくれる優しい人たちもいますが、わたし自身が自分の”価値”を信じられていません。

なので、当面は適度に「罪悪感と劣等感を払拭するために人助けをする」ことを続けます。
そうです。”適度に”というのが大事な部分です。

入れ込みすぎれば、結果的に自分も他人も不幸になります。
よしんばうまくいったとして、相手は助かったけど、自分はボロボロというのが精々です。
(例:仕事で関わった相手に業務外の人助けをして、10万円ぐらい自己負担することになった、等)

人間関係における適度な距離感というのは、わたしの苦手とするところです。
ともかく、試行錯誤中です。

ひとまずは、誰かに決めてもらえる範囲での人助けをすることが、”適度さ”だと考えました。

自分ひとりで考えて動く個人間での人助けでは、極論、時間も労力もお金も無制限に注げてしまいます。
(実際、その結果として心身を壊し、巡り巡って、うつにまでなったわけです)

そこで、福祉職の業務の範疇など、「ここまではやっていいこと、やるべきこと」と時間・場所・内容が決まっている人助けに注力することにしました。
わけあって葛藤はありますが、仕事は変わらず続けますし、地域のボランティア名簿にも登録しました。

誰かが決めた範囲での”適度な”人助けなら、お互いの身を滅ぼすこともないでしょう。

そういえば、という話なのですが、精神科初診の時に、お医者様から言われたことがあります。

「『幸福の王子』にならないように。たしかに王子は何人かの人を救えたかもしれないけど、人助けをして、最後に自分がボロボロになったら仕方ないでしょう?」

これまで、お医者様の口からメサイアコンプレックスという言葉が出たことは無いです。
しかし、初診時のわたしの話を聞いて、その傾向は感じられたのかもしれません。

「幸福の王子」はオスカー・ワイルドの短編小説です。

むかし熱を上げていた「ドキドキ!プリキュア」の劇中で触れられていたので、なんとなく内容は知っていましたが、読んだことはありませんでした。
オスカー・ワイルドの名前についても「ウルトラマンR/B」関連で聞いたことがある程度でした。浅学。

お医者様の言葉を受け、自身の在り方について考える為にも内容を知っておくべきだと考えて、苦手な読書に取り組みました。
初診が2025年11月末で、ようやく読んだのが2026年1月上旬頃です。

ざっくりと言えば、王子の像が、たまたま行き会ったツバメの力を借り、自身にあしらわれている宝石や金箔を恵まれない人に施していき、最後にはボロボロになり、ツバメ共々に天に召されるというものです。

人助けの末に王子の像自身はボロボロになり、人々から見向きもされなくなりました。
最後には、神様の意向で、ツバメと共に天に召し上げられたのが救いです。

この物語を読んでの、わたしの正直な感想としては「王子とツバメは人助けのがんばりを神様に認めてもらえて、うらやましい」でした。
わたしのがんばりは、最終的には、誰かに善行と認めてもらうことはできませんでしたから。

その為、お医者様からの「自分がボロボロになったら仕方ないでしょう」について、改めて考えた際には「それでも誰かに認めてもらえるのなら、ボロボロになるだけの意味はある」と思ってしまいました。

しかし、これこそが”誰かに認めてもらうこと”=自分が救われることが人助けの動機になってしまっていることの証左でしょう。

「幸福の王子」に対するこの考え方も、変えていかなければいけません。

以上、メサイアコンプレックスと向き合おうという話でした。

メサイアコンプレックスというものを知り、自分がそうであると自覚し、それに対して治そうと考えて行動する……。
少し前のわたしの状態からすれば、大いに前向きな進歩だと思います。

ところで、わたしがメサイアコンプレックスの特徴にあてはまるという話は、妻にもしています。
とあるwebページにあった「恋人が喜ぶと思って、たくさんのプレゼントをしてしまう」というのが、交際当初のわたしの様子そのものでしたので、お互いに可笑しくなって笑ってしまいました。

一番身近な妻に心の歪みについて知ってもらえているので、克服のための試行錯誤に、安心して取り組めます。

今回の記事タイトルに(1)とありますように、1回だけで終わらず、状態の改善や新たな取り組みなど、話題ができたらその後の話も書きたいと思います。

今回はここまでです。お読みいただきありがとうございました。
みなさま、どうかよい夜をお過ごしください。

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