異世界転生にときめかない理由を考える

アニメ感想





 いわゆる異世界転生モノは、わたしの心をときめかせてくれません。ええ、完全に個人的な趣味の話です。転生モノが刺さらないのです。視聴したり読んだりしたことがまったくないわけではありませんが、ほぼほぼ食わず嫌いです。
 創作物の1ジャンルが好みに合わないからといって、別に何を損するわけでもありません。気にするほどのことはないのです。なぜかと考えてみるのも益体のないことです。しかし、そういうことをするのがこのブログです。益体もないことを考えてみます。

異世界転生モノが刺さらない

 転生モノがわたしの好みに刺さりません。毎シーズン、新アニメとしてdアニメストアで配信されているサムネイルを見るばかりです。転生モノとして有名な「この素晴らしい世界に祝福を!」のアニメ1期が放送されていた頃、1話だけ見て「へー、面白いじゃん!」という感想を抱いたものの、そのまま1話切りとなりました。当時仕事が忙しかったというのもありますが、続きが気になる/楽しみであるという視聴モチベーションにまでは繋がらなかったのだと思います。

 以前に記事にした「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…」は、劇場版を観る為に仕事終わりに映画館に足を運んだくらいには、好みでした。異世界転生モノの「異世界」の部分が「ゲーム世界」だと受け入れられるのでしょうか。「悪役令嬢転生おじさん」も楽しく視聴できたので、転生モノというよりは、人格者の悪役令嬢モノの部分の方が刺さっているだけな気はします。

 人格という転生する前から持っていたものを武器に、新天地で生活するというのは、見ていて納得感があります。現世では冴えない人物だった主人公が、神様なんかに与えられた天賦の才を用いて、異世界に転生しただけで天下無双の大活躍をしてみせるというテンプレート(食わず嫌いをしているから実在するかは不明)が、転生モノを受け付けない理由の大部分でないかと感じています。まあ、食わず嫌いというだけありまして、偏見が先行している感が大いにあります。

転生と転移は別モノ

 ところで、異世界転生と異世界転移は別のジャンルであると分けたいです。現世で死した後に異世界の住人へと生まれ変わる転生と、自分のままに現世から異世界へと移動する転移は別モノです。

 転移モノを好んでいるかどうかはさておき、転生に比べると受け入れやすい部分はあります。転移における「異世界」……ここではないどこかというのは、転生のそれより幅広いようにも思います。真相はどうあれ、「猿の惑星」や「漂流教室」もある意味での「異世界」を舞台にしたものでしょう。

 比較的最近に放送していた作品で、アニメ版「戦隊レッド 異世界で冒険者になる」は毎週の楽しみになっていました。作品のコンセプト上、転生モノとして楽しんだというよりは、戦隊モノ最終回後のVシネ作品のような位置づけのものとして、すんなり受け入れていました。特撮愛がすごい作品でしたね。劇中アイテムをバンダイから発売してほしいです。

 小学生の頃に夢中になった「デジモンアドベンチャー」シリーズ、中高生の頃に熱中していた「.hack//」シリーズも、ある意味では異世界転移モノかと思います。「ここではないどこかで冒険する」という部分を指してのことです。
 熱中の度合いは一旦置いておき、「MÄR」や「今日からマのつく」シリーズも観たり読んだりしていましたが、これもまた転移モノです。
 こう考えると、多感な時期に複数の転移モノに触れてきています。むかしに観ていた作品の傾向から、こちらは受け入れのハードルが低いのかもしれません。

どうして異世界転生にときめかないのか

 転移モノと違って、転生モノに触れてきた経験が少ないから、なんとなくのとっつきづらさを感じている……まあ、そういう部分もあるのだとは思います。作品ジャンルを受け入れられるか否かについては、経験の多寡の話でよさそうです。
 しかし、それだけではなさそうです。そこにときめきを感じない、刺さらない、響かないというのは、他にも理由があるのではないかと。

現実に未練があるから/満足しているから

 わたしは、異世界に転生する主人公に対して、自身の同一視や感情移入、憧憬のようなものを抱きづらいです。ギャルゲをプレイするときに主人公に自分を重ねることはなくとも、しかし、自分とまったく考え方が違うようなキャラクターであると読みづらさや不快感を覚えます。
(極端なことを言えば、サスペンスでもホラーでもないのに、あたりまえのように殺人を行うキャラクターが主人公だとして、受け入れられるかという話です。遠野志貴? 彼はまあ、例外というか作品ジャンルが伝奇ノベルですし)

 性格設定だけでなく、その身の上なんかがあまりに特殊であると、やはり作品の魅力を感じづらくなります。
 非現実的な世界観であっても、サイタマ先生がただ最強なだけではなく、比較的「ふつう」で「小市民的」な感性を持っている部分があるから、読者/視聴者が置いてけぼりにならないのだろう、とか。超常的であり少し不思議な未来のネコ型ロボットが存在しようと、主人公であるのび太くんが「ふつう」で心優しい少年だから、広く長く作品が愛されているのではないか、とか。

 主人公の境遇について、少なからず「わかる」と思える要素があることは大事なのだと思います。

 少なくとも、わたしに転生願望はありません。露ほどもありません。まったく、これっぽっちも。何故かと問われれば、それは明確な答えを返すことができます。
 今生きるこの世界には妻がいるからです。「君のいない世界では生きていけない」などと砂糖菓子のような言葉を吐くつもりはありませんが、しかし実際のところ、わたしが生きる張り合いは九分九厘、妻の存在に依存しています。
 妻のいない異世界に生まれ変わったとして、そこで生きる意味を見出せる自信はありません。今の記憶を持ったままに生まれ変わるのなら、妻がいない以上は興亡に関係なく、わたしが生きる意味のない世界です。

 わたしにとっての妻、あるいはそれに準ずる存在がないのなら、転生願望が生じるかもしれないと理解します。
 自分を大事にしてくれる人がいない、友人・家族・恩師……懐かしい風景や守りたい故郷というものがない。対象がヒトでなくとも、愛猫・愛犬、好きな漫画や音楽、そういったものが現世にひとつもないのなら、愛想を尽かす気持ちはわかります。
 そんな現世なら、捨てるに躊躇うことはないでしょうし、新天地に生まれ直すことに希望を持てるでしょう。超大規模な人間関係リセット症候群みたいなものかと思います。

 わたしは現世に満足していて、未練を残してしまうから、異世界に転生などしたくありません。なので、別の世界、別の存在に生まれ変わって冒険したり戦ったりチヤホヤされたりという主人公に、共感できず興味を持てないのだろうと思います。このことから、転生でなく転移ならヨシというのは、帰るべき場所に戻れる希望があるからなのだろうとも思います。

なぜか付与される天賦の才が気に入らないから

 食わず嫌いにより例を挙げることはできないのですが、転生モノというのは、現世から異世界に生まれ変わる際に神などから特別な才能を与えられるものらしいと聞きます。剣や魔法の腕前、基礎体力や魔力であったり、スキルと呼ばれるような特殊技能であったり……作品ごとに経緯は違うのでしょうが、何かしらの才能を持った状態で生まれ変わることが多いそうですね。

 これが、どうにも肌に合いません。

 現世でうまくいかなかったのは、そういった才能がなかったからだと認めるのは空しく悔しく悲しいものではないでしょうか。あるいは、天賦の才があれば、窮せずに自由に振舞えるというのも、一面的には現実に即しており、つまりは現実を思い出させ、フィクションとして楽しむことを阻害します。

 また、「才能があるから強い・すごい・偉い」というのは、憧れを抱きづらいです。才能前提の主人公を見て、自分もこの精神性を見習いたいだとか、勉強したり体を鍛えたりして少しでも近づきたいと思えるような憧憬・尊敬の対象にはなりづらいです。だって、どうせ自分にはその才能がないのですから。
(特別な才能を持って生まれた者の責任として、世界の危機に立ち向かったり、苦難や悲嘆を一身に引き受けたりする主人公は好みですが)

 そもそも、神などに面会して、そしてなにかしらの才能を付与されるという過程に納得感を得たいです。
 先天的な才能のある主人公ではありますが、孫悟空が強くなっていく過程には、ちゃんと修行や強敵との戦いがあります。よき師に恵まれ、神様やそれ以上の存在との接触もありますが、インスタントにスキルや技を与えられているわけではありません。強くなるのなら、そういう過程が欲しいのです。

 ただ生まれ変わっただけで、現世では成り得なかった理想的で最強の自分になるというのが、好みに合いません。
 

場合によっては憑依される相手が可哀想だから

 作品によっては、転生先として、既にいる異世界人の体を乗っ取るものがあると聞きます。憑依ですね。先に挙げた悪役令嬢モノの2作品なんかも、それです。もともと悪役令嬢としての人生を送っていた人物の体と立場を乗っ取る形で、彼女や彼は転生しています。

 記憶と才能を保持したままに、これから生まれる赤子に転生する。これならば、転生先について文句はありません。あるいは、乗っ取り先の人物がそもそも人格を認めるべくもない被造物であったり、元の人格が消えるわけではなかったりするのなら、やはり不快感は薄いです。

 我が身に置き換えて考えてほしいのです。これまで生きてきた自分というものが、ある瞬間を境に突然に他人に乗っ取られるのです。抵抗することもできないままに、自分という存在が書き換えられるのです。恐怖を感じます。
 個人的には、他人の体を乗っ取って生まれ変わるというのは、ミハイル・ロア・バルダムヨォンであったり大蛇丸であったり、悪役のやることというイメージがあります。

 自分の体や人生を奪われるというのは、あまりにも恐ろしいことです。これを強いられる転生先の人物が可哀想になってしまうので、この部分についての落としどころが納得のいくものでないと、やはり受け入れづらいです。

精神は自分のままに、他人の体になることが怖いから

 自分が自分でなくなることの恐怖感ついでにもうひとつ。現世からの地続きの記憶や人格のままに、体などが別のものになるというのも怖いです。
 たとえば、現代人の記憶と感性のままにウジ虫に生まれ変わったとして、気味の悪い兄弟と共に腐肉を食べることができるでしょうか。これはあまりに極端な話ですが、別ものの体や人生というものは、怖いです。転生モノではありませんが、グレゴール・ザムザ的な恐怖です。

 悟空の体を手に入れたギニューが、その強さを十分に発揮できなかったように、転生先である「他人」の体を上手く扱える保証はありません。異世界の大気や言語、文化に馴染むまでの時間もストレスフルでしょう。(そのあたりは天賦の才により補われるのかもしれませんが)

 自分の精神のままに、自分でない体に生まれ変わる……。これは恐怖です。

単純に2周目の人生が煩わしいから

 異世界に限らず、生まれ変わるということに憧れません。これは単純な話で、2周目の人生というのが煩わしいからです。嫌なこと、悲しいこと、辛いことがあるなかで生きて、ようやく死ねたという段になって、記憶をそのままにまた何十年と生きないといけないというのは、一種の苦行でしょう。まあ、記憶の有無はさておき、輪廻転生というのはそういうものでしょうが。
 解脱できるほどの徳が無いのだから、転生もやむなしなのでしょう。それを好意的に捉えることはできません。

 1日生きるだけでも疲れ果てていて、これをあと何十年と繰り返すのだと思うと気分が重くなります。それが人生というものでしょう。記憶を持ったままに生まれ変わって、生まれた瞬間に、このさきの数十年の煩わしさを思うのなら、それはどんなに憂鬱なことでしょうか。

 特別な才能や優れた容姿を手に入れて、憧れのファンタジー世界に生まれ変わったとして、そこでも人間関係というものは避けられません。ストレスフル!

いつかは異世界転生のよさがわかるかもしれない

 長々と書きましたが、まあ、結局は食わず嫌いなのです。ジャンル内での金字塔に触れれば、考え方も変わるかもしれません。

 好き嫌いはさておき、世界転生の設定があるキャラクターは受け入れています。
 仮面ライダーでいえば、浮世英寿ですとか。主人公ではありませんが、先に挙げたロアや大蛇丸ですとか、あるいは麻倉葉王ですとか。別の世界に生まれ変わるのではなく、何かしらの目的の為に自力で転生の手段を獲得して、永い時を「生きる」というのはよいです。転生する方法を自力で得ているという過程は大事です。

 異世界転移モノは受け入れることができていて、世界転生にも納得しているのですから、いずれは異世界転生のよさがわかるときもくるかもしれません。なにかよい転生モノに出会えれば、そういうこともあるでしょう。いずれです、いずれ。

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