ポケモンアニメの終わりと始まり

アニメ感想





 おはようございます。長年続けているセルフカットでたまに失敗する典藻のりもキロクです。たまに……?
 失敗した際には妻から「気にしなくていいんじゃない」と半笑いで言われます。半笑いとはいえ素敵な笑顔が見れて結構なことです。



 それはそれとして、最近(ここ3ヶ月以内)、アニメ「ポケットモンスター」の最終回を見届けました。また同アニメの新シリーズの初回スペシャル(1話&2話)も視聴しました。

 アドバンスジェネレーションの途中あたりだったでしょうか。アニメのポケモンは映画も含めて長いこと見ていませんでしたが(ミュウツーの逆襲EVOLUTIONは見ました)、幼い典藻を楽しませてくれたアニメの終わりを見届けたく、最終回を視聴するに至りました。


思い出ばなし

 ポケモンのアニメが始まったのは、たしか典藻が幼稚園児の時分だったように記憶しております。所謂ポリゴンショックの後に「学級王ヤマザキ」が放送されていたことや、長い長い1週間後を楽しみにしていたポケモンがお休みになっていたことなどをリアルタイムで体験した世代ですとも。



 ポケモンのゲームは小学4年生だったか5年生だったかの頃に「金」版を遊んだのが初でしたので、アニメや玩具を中心にポケモンに親しんでいました。
 ポケモンの玩具の思い出としてすぐに思い浮かぶエピソードが3つありまして、

1. 近所のヨークマートに母の買い物についていった際、「帰り道がんばって歩けるなら」という条件でトランセルの指人形を買ってもらったこと。サッカー台でビニールに入れてもらい、透明なその袋から覗くパッケージを大満足で見ながら帰路につくも、店舗を出て少しもしないうちに母におんぶをせがんだこと。

2. 当時発売が始まったばかりだった(はずの)ポケモンカード(現行のものでなく、いわゆる旧版のもの)をルールもわからないなりに集めていました。とはいっても、親に買ってもらえる機会などそうそうなく、商店街にある公園のような舞台のようなスペース近くの植え込みの陰に何故かよく落ちていたものを拾い集めることが多かったように思います。
そんなポケモンカードですが、母からは「〇〇君はカードでひらがなやカタカナを覚えてるっていうのに、あんたはどうしてそれができないの」と怒られたような嘆かれたような記憶があります。幼子の時分より、出来の悪さが見えていたわけですね。

3. ある日、食玩として販売されていたスタンプが、台所の「子供の手の届かないところ」であるところの冷蔵庫の上に置かれていることを何かの切欠で知りました。母の不在時に、幼児なりに知恵を絞り、近くにあった椅子やらなにやらを利用して、どうにかその「お宝」を手に入れました。
 そうして、嬉々としてお宝のパッケージを開け、中身を確認してご満悦。帰宅した母に「ポッポのスタンプだったよ!」と上機嫌に報告したことを覚えています。
 その玩具は、母が幼い私が何かを頑張ったときにご褒美として渡そうと考え隠していたものでした。勝手に取ったことも、勝手に開けたこともどちらも怒られ、玩具のみならず未開封のものを開ける際にはひとこと確認するように教えられました。
 その後はだいぶ長い間、高校に入って自分のバイト代で買い物ができるようになるまでは「あけていい?」と母にきくのが恒例になっていました。



 などと誰が知りたいわけでもないだろう記憶を記録として残してみました。
 典藻”キロク”ですからね。こういうことも記録しておきましょう。私のダジャレはちょっぴり高度、私的なこともしっかりレコード。
 ちなみに、「典藻キロク」の由来は「ノリも記録」ではありません。



 閑話休題。あれから20余年、長く続いたアニメにも一旦の終わりを迎えました。
 長く続いたサトシの旅も終わ……りませんでしたが、物語としては終わりを迎えたということで。


 長い長い、非常に長い旅路だったでしょうに、変わらず、サトシ少年はいつかのあの日のように輝いていました。
 世界でひとつだけの最高のボロボロぐつを家に置き、また新たな旅立ちへ。彼の夢がいつか叶うその日まで、その旅はずっと続くのでしょう。

 がむしゃらに来る現実に忙殺されそうなこの日々の中にあっても、ふとしたときには空を見上げたいものです。
 青空でも灰色の空でも、あるいは雨降りの日でも、広がる空の下、世界のどこかでサトシ少年が、八神太一が、五代雄介が、あるいはその他の夢追う彼らが、今も夢を追い旅を続けているのだろうと思えば、また今日も生きていく勇気をもらえます。




蛇足「新シリーズの所感」

 …………陶酔しきった詩的な言い回しをしておいてなんですが、まだ終わりません。もう少しだけ続きますとも。
 せっかくですから、新シリーズの所感などを。

 まず、アニメが1時間スペシャルで放送されるということだけでも、当時の「今日は1時間もポケモンを見られるんだ!」という気持ちを思い起こさせてくれました。
 20年以上も続いたサトシ&ピカチュウというコンテンツの看板ともいうべき「主人公」が交代になるということで、期待半分不安半分で視聴に臨みました。

 ニャオハが次期ピカチュウに成れるかは、現時点では何とも言えませんが、猫らしい動きが綺麗なアニメーションで描かれ、その愛らしさは十分に伝わりました。

 リコについてですが、やはりサトシとは違うタイプの主人公であり、魅力の差別化はできていると思います。性別であったり学園に所属していることなどもそうですが、なによりも彼女は「選ばれし者」タイプの主人公でした。
 
 サトシは「おれはこいつと旅に出る」でピカチュウと一緒にマサラタウンを発った後、カスミやタケシ、(見方によっては)ロケット団たちと交友関係を自ら広げていった「普通の少年」でした。

 対して、リコは「謎を秘めていそうなペンダントを持っている」上に「それを求めてかリコが何もせずとも大勢の人間が寄ってくる」という「普通の少女」とは言い難い造形がなされています。


 「普通の少年少女」タイプは、まだ何者でもない子供が感情移入しやすいものと思います。
 いつかデジモンの話をするときに語ろうかと思いますが、八神太一に対する感情と工藤タイキに対する感情が大きく違うことの一番の理由はこの「普通」であるか否かによるものと自己分析しています。
 
 「選ばれし者」タイプの主人公は、特別な境遇や才能を持って造形されるが故に、その活躍は感情移入の対象というよりは、憧憬であったり現実逃避であったりの対象になるものと考えています。
 現実離れしたドラマチックな展開に巻き込まれたり、類稀なる才能や或いは異能を用いて事態を快刀乱麻に解決し、まさに「主人公」といった振る舞いは、小説より凡なる事実に生きる者たちには「自分もあんな風に活躍してちやほやされたい」という夢想の世界の出来事に過ぎません。



 まあ、とはいえ、「リコはポケモンという作品の主人公に不適格だ!」「こんなのポケモンのアニメじゃない!」などと阿呆なことを言うつもりは毛頭ありません。
 サトシに対して親しみを覚えているとはいえ、長い間コンテンツから離れていた身で「こうあるべき」といったこだわりもありませんし。

 それよりなにより、本来のターゲット層である子供には「普通の少年少女」だろうが「選ばれし者」だろうが、好きなアニメのキャラならば、それは等しく「好き」の対象になり得るでしょうから、オトナが屁理屈をこねるのは無粋かつ自己満足の域を出ない時間の浪費に過ぎません。


 円盤やグッズの売り上げがどうだとか、視聴率がどうだとか、作品の好き嫌いにそんなことは関係なく、当人が好きなものを素直に好きでいられるのが、いちばんよいことだと思います。
 綺麗ごとばかりの弱き者ですが、だからこそ本当にしたいですよね。



 ちなみに典藻の好きなポケモンはラルトス、ネイティ、アブソル、イトマル、オオタチです。


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