最初に断っておきますと、タイトルにつけました「フェチ語り」の記事は今回含め、だいぶ気持ち悪いものになっていますので、閲覧注意ということでお願いします。
特に女性ですとより不快に感じるものかと思いますので、間違ってここにたどり着いてしまったようでしたら、ブラウザバックをお願いします。
また、お読み頂けました方も、わたしの好みについては見て見ぬふり、見なかったことにして他言無用でお願いします。性癖をあまり開け広げにするのは、はしたないかと思いますので、どうかご容赦を。
街中で見かけたお嬢さん
これまでの記事で、二重あごが素敵なお嬢さんや太ももが素晴らしいお嬢さんを見かけた話をしてきました。はい。そうですね。わたしのフェティシズムというのは「ぽっちゃりした女の子が好き」というものなわけです。
このような書き方をしているということは、また街中でぽっちゃりしたお嬢さんやお姉さんを見かけた話をするのかと予想してくださっているでしょう。しかし、今回はやや毛色の違う話です。……いえ、まあ、目測体重120kgぐらいの大きなお腹が素敵なお嬢さんに目を奪われた話はあるのですが、これはまた別の機会に。
先日、出先で見かけたのは、服の上からわかるぐらいに胸が大きく、かつ腰がキュッと細いお嬢さんでした。

ない画力を振り絞ったので、参考にしていただきつつ、話を続けたいと思います。
実際の服装は、胸元にロゴかイラストかがプリントされている白Tシャツに、裾が広がっているズボン(名前がわからない)、靴はよく見えませんでした。繰り返しになりますが、腰をキュッと絞っていて、アニメや漫画のキャラクターのような「細身巨乳」のお嬢さんでした。
胸囲の大きさ、細い腰、広いズボン裾で、大雑把な言い方をすれば砂時計のようなシルエットになっていました。
フェティシズムからは外れるのに何故視線を向けてしまったか
これまでの記事を読んで下さり、わたしのフェティシズムをご存じの方からすれば、わたしが「細身巨乳」に視線を持っていかれたのは意外に思われるかもしれません。
元も子もないことを言えば、「男は皆おっぱいが好き」ということかもしれません。あるいは、豊かな乳房もまた体脂肪であるのだから、胸以外が細身であっても好みの範疇という解釈もあるでしょう。まあ、それらも否定はできません。なんのかんのと御託を並べても、豊満な胸囲の女性を見れば、つい一瞬視線が吸い寄せられてしまいます。
ですが、基本的には「巨乳」という属性だけではフェティシズムへの合致率は低いです。
「ぽっちゃりした女の子が好き」なのは先の通りですが、さらに詳細な好みを述べるのなら、「ぽっちゃり貧乳が好き」というのがわたしのフェティシズムです。
「ぽっちゃり貧乳」というのは、いささか品のない表現なので好むところではありませんが、平易に情報伝達ができるかと思いますので、この記事内ではこちらを用いさせていただきます。
全体にモチモチどっしりしていて、二の腕・太もも・おしり・おなか……の肉付きが豊かであるのに、胸への脂肪の供給が後回しになっている女の子が好みなのです。ええ、はい。たまに言語化すると、我ながらちょっとアレですけど。
どれぐらいのものかといえば、敬愛する神絵師の先生のオリジナルキャラクターが好みに刺さって、個別記事を書くぐらいには、癖なのです。
さて、それを踏まえますと、「細身巨乳」という「ぽっちゃり貧乳」の正反対の属性に惹かれるのは不自然に思えます。不自然さに疑問を覚えた以上は、その理由を見つけたくなるものです。それが自分自身の心(この場合は下心すなわち性欲ですが)の動きに関するものならば、なおさらです。……わたし、暇なのか?
逆接の接続詞という共通点
「ぽっちゃり貧乳」と「細身巨乳」、一見正反対に見える……というか、実際外見上の特徴は正反対なそれらですが、フェティシズム的にはある種の共通点を見出すことができます。
対象が女性であるとか、そういった大雑把な話ではありません。逆接の接続詞がキーワードなのではないかと考えます。
「ぽっちゃりしているけど、胸が控え目である」や「痩せているのに、胸がとても豊かである」という、前後で意味が相反する表現になるというのが共通していると、わたしはそう言いたいのです。
「ぽっちゃり貧乳」と「細身巨乳」はニアリーイコールである……などと言えば、それらの身体的特徴を持つ方々は反発するでしょうし、わたしも実際暴論であるとは認識しています。そんな概念異能バトルの言ったもん勝ちのようなこじつけがフェティシズムに通用するのかといえば、惹かれるものがあった以上は、無理が引っ込んでいるのでしょう。
想像力のなさ故に、具体例は思いつかないのですが、おそらく他にも同様の「逆接」の特徴・属性・シチュエーションというものも、刺さるものがありそうです。
フェティシズムは難解なもの
二重あごや太ももが素敵なお嬢さん方にしろ、「ぽっちゃり貧乳」の女の子にしろ、フェティシズム的にクリティカルな外見な人物がいたとして、しかし、最終的には内面が大事です。フェティシズムは当然のことながら、性欲由来のものです。生物的な欲求から生じるものであるのなら、生物を構成する一面でしかない身体的特徴のみで「癖に刺さる」という風にはなりません。
「よいものが見れた」とはなっても、「(性的に)好みのタイプだから」と具体的にどうこうという考えは起きようもありません。相手の人格など知らないのですから。
たとえば、モナリザを見て、「美しい」と思ったからといって、「女性として魅力的である」=「性的に興奮する」とはつながらないでしょう。たぶん。一部の……いえ四部の人物はさておき、です。
我が事ながら、フェティシズムは難解であり難儀であり、面倒くさいこだわりです。内外ともに性的魅力にあふれる人物に出会うというのは、そうあることではないでしょう。だからこそ、人類は創作(特にエロ方面)を進化させていったのだろうなぁ、と思ったり思わなかったりラジパンダリモンスターリ。理想の人物が現実にいないのなら、自分の手で書いて/描いてやろうというのは、実に建設的な考えです。
しかし、その理想像というのも、なかなか定まるものではないでしょう。今回、わたしにとって「逆接」がフェティシズムの一部になっていることを見つけたように、何かのきっかけで気づくまで自覚していない好みがあるのです。
きっと、自分のなかにあるものだけでは、理想を見つけることはできません。よく聞く「インプット・アウトプット、どちらも大事」というのは、フェティシズムにも当てはまるということなのでしょう。
フェティシズムにも、「自分探し」が必要なのかもしれません。
コメント