百損あっても一利はある休日出勤

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 百獣の王、百薬の長、百代の過客……。百というのは大きな数字を表すのに用いられます。
 十と百、2桁と3桁では大きな隔たりがあります。桁が変わるというのは文字通りの「桁違い」。百を超えてこその……いえ、性癖が漏出しそうなので控えます。

 そんな百を用いた言葉として「百害あって一利なし」があります。
 最近特に多い休日出勤について考えた時、この言葉をもじって「百損あって一利あり」と称するのが適当なのでないかと思う今日この頃。という話をしたく。


 害と呼ぶには不適当なので、損。
 少なくても一利程度はあるので、あり。
 という風に呼ぶべきかと思います。なので、百損あって一利あり。


 特に先日の22日(日)の休日出勤で強くこれを感じました。
 なにを以て損と呼んでいるのか。
 この日曜日が休みだったのなら、前日に「明日は仕事で朝が早いし、東京のイベントの参加をあきらめよう」とは思わなかったはずなのです。断腸の思いで入手を諦めた限定の玩具を買えたかもしれないのです。
 あるいは、その日が休みだったのなら、久しぶりの推しの配信にコメントのひとつもできずに歯噛みすることもなかったでしょう。
 はたまた、イベントも配信もなかったとしても、書きたいものや描きたいものに時間が充てたり、ゆっくり家事をしたり、お茶とおやつを楽しむことだってできたでしょう。
 それらのすべてをかなぐり捨てて臨まなければならないのですから、百損と呼んで差し支えないと考えます。

 一方で、なにを利と呼ぶのかという話です。
 予定を返上して心身の休息を捨てて、貴重な時間を費やして働いても、お給料には特に手当て・上乗せがありません。なぜなら、出勤している以上は、その日は出勤日であって休日では無いからです。休日ではないのなら、それは休日出勤と呼べるものではないし、休日手当なるものがつくはずもありません。なるほど筋の通る話です。
 つまりは金銭面での利はありません。
 もちろん、労働自体に喜びを見出しているわけでもありません。基本的に、しなくてよいなら労働をしたくない身としては「休みの日にも働けてハッピー」と思うはずもありません。

「ありがとう。これで今夜は安心して過ごせるよ」
 この一言を利と呼びたいのです。もちろん、「ありがとう」では腹は膨れません。しかし、自分の為の時間を捨てて、それで感謝をされるなら、ほんの少しだけ憧れのヒーローに近づけたような錯覚を感じられるのです。あくまで錯覚とはわかっていても、ほんの一瞬の高揚だとしても、得難い達成感ではあるのです。
 憧れのヒーローたちならば、助けを求める人がいて、助ける為の力や立場を自分が持っているのなら、きっと駆けつける筈なのです。「憧れ」と口にして、それこそが理想のヒトの在り方であると思うのなら、わたしもそうしなければなりません。「憧れ」に伴う責任です。
 体が弱って立てなくなった。傷病の苦痛がある。そういった人々に呼ばれてしまうのなら、その期待に応えなければなりません。期待に応えられず有用性を失うのなら、わたしは個人どころか労働者という役割上の価値すら失います。
 「憧れ」に近づこうなどというのが欺瞞であることはわかっています。でも、よいじゃないですか。娯楽も休息も返上した悔しさを鈍麻させてくれるなら、自分を誤魔化したってよいはずです。

 ですので、「ありがとう」は、百損の中に見出し得る唯一の利といえましょう。
 パンドラの箱の底の希望、または、食べきったと思ったら袋の死角にひとつだけ残っていたたけのこの里。

 百損あって一利あり。今週末の休日出勤にも、一利が見出せるとよいのですが。

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