クリエイター不適性の自覚

イラスト関連





折れた気持ちと創作活動

 自身が創作活動に不向きであると思い知り、気持ちが折れて、先月はブログの更新もまったくしていませんでした。

 これまでに行っていた創作活動(らしきもの)に関して悩んでいたあれこれや、他人事の余計な心配や、職場でいろいろと手を焼いていたことなど、諸々が積み重なっていました。表面張力ぎりぎりだったところに不意の一滴が落ちてきたことで決壊したというのがおおまかな経緯になるでしょうか。
 なので、具体的になにがきっかけというわけではないのです。文章や絵をけなされたわけでもありませんし。
(陰でバカにしている方はいらっしゃるかもしれませんが、わたしが観測しない以上はわたしの世界にはいないのと同じです。地中の蟲をことさらに気にすることもないように、生活域が異なれば、会わないままのほうが互いに幸せです)



 創作活動に向いていない。クリエイターの適性がない。なにか価値のあるものを創出することができない。これを自覚してしまったのですから、それなりに悲しかったです。
 いえ、自分の中で、なにを指して創作活動だとかクリエイターだとかと呼ぶのかというのは、非常に曖昧なところではあるのですが。
 ブログを書くことも広く捉えれば創作活動と見ることができるかもしれません。ただ、わたしの中ではブログは何かを創り出しているものではなく、日々感じたことや思い浮かんだことを記録しているだけのものです。創作ではなく、記録です。
 わたしの活動名である「キロク」の由来は「記録」ではありませんが、同音であることは間違いありません。奇しくも「名は体を表す」という形になったと言えるでしょう。仮にわたしが「ツクル」とか「ソウサク」とかを名乗っていれば、或いは名前に引っ張られる形で何かを作ることのできる者になったでしょうか。



 わたしが創作活動らしきものを行うこと……例えば絵を描くことに「自分が楽しい」という以上の価値はありません。
 一方で、わたしのことを「素晴らしいクリエイター」と声に出して呼んでくださった方がいます。価値は無くとも意味はあったのだとは思います。少なくとも、その方はわたしの描いたものに意味を見出してくださいました。一生かけても返せないほどの大恩です。どのように報いればよいのか、常に悩んでも答えがでない恩人です。

 しかし、クリエイターと呼んでくださった方がいるのと、その適性があるかどうかはまた別の話です。適性がない、というのは日ごろから薄々は感じていたことでした。

クリエイター不適性

 出力と入力を両立できないというのがやはり一番「向いていない」ところでしょうか。
 創作活動に出力の回数を重ねていくことは大事なことかと思います。しかし、出力ばかりでなく、新しい情報・刺激を取り入れる入力もまた必要なことであると理解しています。わたしにはこれが両立できません。
 仕事から帰ってきて、その日の残りの体力でできるのは精々どちらか一方です。本を読むには集中力が足りず、映像作品を見てからでは何かを出力する時間や体力が残らず、逆に出力を行えば入力に要するリソースが欠けます。
 現に今年の1月までのように日々ブログを更新したり(創作ではありませんが出力の一環として数えさせてください)、恩人宛にファンアートを描いてみたり、それ以外の落書きをしてみたりと何かを出力する日々の中では入力に割ける時間があまりありませんでした。辛うじて週末は時間も体力も余裕があるので、両立できる時もありました。

 出入力どちらにも時間を充てられる週末は非常に楽しみなものです。
 「あれを書こう/描こうかしら」「たまってしまった仮面ライダーの視聴を消化しようかしら」「ちょっと頑張って漫画でも読んでみようかしら」と、楽しい予定に思いを馳せて、平日を過ごすのです。……そんな、とても楽しみな予定を打ち砕く急な休日出勤もまた、今回の決壊の一因だったように思います。


 出入力の両立ができないのと同時に、毎日出力を続けることができないというのも不適性のひとつです。
 はるか昔のこと。音楽やら体育やらの授業や部活やその他の様々な場面において、楽器の練習でも運動競技の練習でも、「1日休めば3日腕が鈍る」というのをそれぞれの先生方から聞かされました。なので、毎日なにかしらを作らなければ、「作る」ことの腕が落ちるというのは常に頭の片隅にありました。口酸っぱく言われていましたので、今更ひとから言われるまでもなく。

 しかし、やはり毎日出力を行うということは現実にはできていませんでした。書きたいものも描きたいものもたくさんあるのに、体力と時間が追い付きません。アイデアを形にできないもどかしさも然ることながら、「今」作らなければ明日には腕が落ちているという焦燥感も当然のように這い寄ってきます。
 仕事が忙しいなどというのが甘え・言い訳・現実逃避に過ぎないことは重々承知しております。サラリーマンとしての生活をこなしながら漫画や小説を生み出している方がどれほど多くいるか、インターネットを見ればわかります。中には時間のない中で職業作家になった方もいらっしゃるでしょう。
 なので、それは人間の機能として「できない」ことではないのです。翼が無いから飛べないとか、エラがないから水中で呼吸できないとか、器質的に不可能なものではないのです。「やればできる」範疇なのです。それをできないというのなら、それは甘えでしかありません。

 某覇権アニメの劇中歌の歌詞を借りれば「頑張ってない証拠だぞ」ということです。頑張ってないのです。仮に頑張っているつもりだとしても、結果として出来ていないのなら、それは「つもり」なだけで頑張ってないのです。
 時間がないというのなら、時間を作るのが大人でしょう。ないなら作る。ドゥーイットユアセルフ。すなわち寝食や整容にかける時間を削ればよいのです。欲しい成果や望む結果がある状態において、削れるリソースを削らないのは「頑張ってない」といって差し支えないでしょう。
 実際に、まだわたしは体や心を壊していません。お医者様にかかっていませんから。つまり、壊せるだけの体と心というリソースが残っています。それを消費することなく「時間が無い」と口にするのは甘えです。
 死ぬほど頑張って、死んでも報われなかったのなら、死んでから「時間が足りなかった」とようやく言えます。そんなことは誰に言われずとも、わかっています。わかっていて実行できないのだから、わたしはただの怠け者です。




 幸いなことに、と言ってよいのか。
 ろくに出力もせずに消費活動に勤しんでいた期間の後に描いたものも、傍目に見れば「腕が落ちた」ような出来ではありません。もともと落ちる程の高い位置にいなかったというのが幸いしましたね。
 レベルがゼロなら、何日分腕が落ちたとて、ゼロはゼロのままです。それ以上は下がりません。レベルがゼロということは、レベルがゼロということです。勝鬨くんも納得してくれます。
 レベルがゼロでも創作活動「ごっこ」はできます。価値を創出できないとしても、そのごっこ遊びにすがることができます。


創作福祉論を痛感する

 某犯罪学教室のVtuberの先生が以前に語っていたことに「創作は福祉である」という論があります。今回、この創作福祉論について、身をもって実感しました。

 何者でもなく、何も持っておらず、何もできない自分を受けれたくなくて、創作をしている間だけは「何かをしている自分」になれて安心感を得られる。これを実感してしまうことの悲しさ。
 わたしの仕事は、管轄省庁の人間からいらない仕事と言われる程度のもの。外付けの「仕事」に価値もなく、常に自称しています通りにわたし自身も意味なし価値なし能無し名無し。

 それでも、いつかの日に夢見てスタートラインに立つことすらしなかった「ラノベ作家クリエイターになりたい」という思い出の残滓が消えません。
 今は何もないわたしでも、いつかの明日に価値を生み出せる者になれるなら、それは素敵なことです。その明日に向かっている「つもり」になれるのが創作活動ごっこです。

 仕事に価値がないと言われてしまうのなら、価値ある仕事に就けるよう努力をすればよいでしょう。
 自身に意味や価値や能がないのなら、それを得る努力をすればよいでしょう。
 それをせずに、なにかの価値を生み出すわけでもない上辺だけのごっこ遊びをすることで「自己実現に向かっている」気分になって現実逃避をして虚無感を慰める。

 必要とされない仕事、必要とされない人格であることを誤魔化す為のごっこ遊び。
 自分を騙して、それがごっこ遊びなどではなく、何かしらの生産性を持つ活動であると信じて……いたかったですね。
 自分の活動が誰にも必要とされないごっこ遊びに過ぎないということを自覚してしまうのは、やはり悲しいものです。そんなことをしていても、何者でもないわたしは何者にもなれないままなのです。

適性が無くても自由に書けば/描けばよい

 まあ、別に適性が無い事を罪に問う国家に住まうわけでもなしに、ウジウジグジュグジュ言ってないで、好きなように書けば/描けばよいわけなのですが。
 よくも悪くも、わたしが何をしたところで何が変わるわけでもありません。
 もとより、わたしの創作活動ごっこが誰かに必要とされたこともないわけですし、やってもやらなくても、影響があるのは自分の心ひとつ分だけです。

 ただ、「向いていない」以上は職業として創作を行うことはできないでしょうから、変に夢を見るのだけはやめるのがよいですね。ロクなことになりません。同じく適性のない「他人と関わること」を仕事にして、絶賛苦戦しているわけですし。

 仕事でなく、誰の為でもなく自分の為に行うのなら、所詮は道楽です。悩むのも好きにすればよいし、やめたいならいつでもやめればよいです。
 やってもやらなくても、何者でもない状態が変わるわけでなし。

 勝手にしろ、わたし。

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