絵を描いたり、小説を書いたり、ポケッターリモンスターリラジパンダリ。下手の横好きというにも不足する腕前ではありますが、創作活動のようなものを嗜んだり嗜まなかったりしています。あくまで「ようなもの」であって、わたし程度のそれを創作と呼ぶのはおこがましいという自覚はあります。自分の立ち位置はしっかり知っておくべきです。
作り手が不出来なら、作られるものもまた不出来なわけですが、しかし、わたしにとっては愛着のあるものたちです。折に触れて、「むかし、ああいうのを書いたなぁ」などと思い出したりしますが、その際にいつも思うことがあります。
記事タイトルにあります通り、好きでやっている筈の不出来な創作(仮)においてすら、易きに流れてばかりだということです。
描くのが難しい部位や装飾を画角から外して省略したり、書くキャラクターの大半が分身であり代弁者でしかなかったり……。簡単に作れるもの、作業工程の省略をして出来が損なわれるということがよくあります。
以前に自作したノベルゲームやシューティングゲームについても、この傾向がよく出ています。
表現したい物語がある→漫画で同じキャラクターを何度も描けるほど絵が安定していない→立ち絵なら1度描けば使いまわせる→ノベルゲームにしよう……何とも安直な発想です。いえ、もちろん、いつかギャルゲを自作するという薄らとした夢のようなものがあってこそではあります。それにしても、出来ないことから逃げた上での制作だったことは否定できません。
2本+αのノベルゲームを作った後、1枚絵や背景、そもそもの文章を書くことからも逃げた上で、シューティングゲームを作りました。BGMやSEはノベルゲームの時に作ったものを流用しているので、省エネ仕様です。まあ、こちらは授業の課題を好き勝手にした結果なので、それほど後ろ向きな取り組み方はでありません。
書いたり描いたりしている間は楽しいです。作業に没頭しすぎて、気づくと何時間も経っています。楽しめるし、納期があるわけでもない個人の趣味だというのに、安易な方へ流れてしまいます。よくないですね。
かといって、自分なりにがんばったところで、それが他者評に堪えるものになるとも限りません。下手なりに工夫を凝らして描いたものより、雑なパロディの方が評判がよいというのは、何とも空しいものです。また、(創作に限らず)時間をかけたものが批難されることもあります。
労力を惜しんで時間短縮で作っても、あるいは時間をかけて丁寧に作っても、他人から見たらどうだってよいものなのです。世間的に重視されるのは結果・成果物であって、その過程は軽視・無視されがちです。労力をかけるかけない、どちらにしたって最終的には自己満足でしかありません。
自己満足の観点でいえば、省エネのものだとしても、完成させたからにはそれなり以上に満足感を得ています。なので、この先もいつまでも易きに流れるのだろうと予想がつきます。それで満足してしまっているから、いつまでも不出来なままなのでしょうけど。
創作活動(仮)においても易きに流れてばかり
イラスト関連

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