推し活とは「推死活」と見つけたり。

推しの話シリーズ





冒頭文

 おはようございます。路傍の殺生石、典藻のりもキロクです。

 ところで。
 いえ冒頭からところでも何もないのですが。ところで。
 典藻が度々名乗る「路傍の殺生石」とは自分自身を評した下記の詩に用いた言葉でして、内容の後ろ向きさの割に非常に気に入っています。
 声に出して読んだ際の語感もよく仕上がったお気に入りで、当ブログの説明文にも最初の一節を用いています。

意味無し価値無し能無し名無し いつまで経っても宙ぶらりん
なんにも為せない半端者
輝くことなき無様な石ころ しかして触れれば人畜有害
即ち路傍の殺生石


 
 それはそれとして、今回は「推し活」の話です。
 とりわけ実在の人物を推すということについてです。
 
 ええ、非実在青少年などのキャラクターのファンとして活動するなら、当ブログ内での典藻のように「ふおおおおおカナヲちゃんふおおおお!」でよいのです。
 しかし、対象が実在の人物であるなら、話は別です。
 特に典藻は人畜有害の外道ですので、「典藻キロクに推されている」ということ自体が相手に対してマイナスステータスになることを自覚しなければならないと考えています。

 実在の人物というのは役者や歌手、アイドル、配信者などを指します。
 典藻の推しが何をしているどこの誰であるかというのは本題からやや逸れるので、今回の記事では触れません。
 ですが、当記事を書こうと思うに至った経緯にVtuberの存在が関わっていますので、今回はVtuberもとい活動者周りのことを話しているのだと思いながら読んで頂けますと幸いです。

「推し」という概念の認知について

 ここ10年前後で聞くようになった「推し」という言葉について、最初はいまいち馴染みがありませんでした。

 この言葉は、特定の人物/キャラクターやグループ或いは作品を好んでいる、応援しているという感情やその様子を表すものと認識しております。
 更に年代を遡ると「萌え」や「俺の嫁」といった俗語がありましたが、これらが更に一般に浸透しやすいよう形を変えたものなのだと解釈しております。
 アイドルグループなどに対して、所属する特定のメンバーでなくグループそのものを推すという「箱推し」なる概念が存在していることも、比較的早くから認知しておりました。


 しかし、生活の中でこれらの「推し」や派生形などの語群を用いるのは、当初は妻(当時は恋人関係ですが)との話の中で「好きなキャラクター」を指して「推しメン」と称している程度でした。
 好きなキャラクターという意味合いであれば、より古い時期、幼少の時分より「カクレンジャー好き!」「ティガ好き!」「デジモン好き!」でしたし、中学高校の頃にもう少しだけ知性を得てからは特定のキャラクターに対して「好き!」という感情を持っていました。
 
 ですので、「推し」という概念について、つい最近まで「好きなキャラ/作品」といった捉え方をしていました。
 いえ、非実在の対象であるならそれも間違いではないのだとは思いますが。

 ヒトの名前と顔を覚えるのが苦手な典藻は俳優やアイドルを好きになるという経験がなく、(テレビの中の)実在の人物に対しての「好き」という感情を強く向けることがありませんでした。
 母の好きな剛くんや山Pや松潤に対しては、見る機会が多かったことから好印象を持っていますが、「推し」というわけではありませんでしたしね。

Vtuberに対しての感情

 ヒトの顔と名前が覚えられない典藻ではありますが、個性的・特徴的な要素を持ったキャラクターデザインや名前の非実在人物については人並み程度には判別と記憶ができます。

 そこにくるとVtuberというのはある種の奇跡的な存在です。
 典藻にも見分けがつくキャラクターのガワを被った「生きた人間」です。もちろん、ある程度以上にキャラクターを演じてはいるわけですが、しかしすべてが台本通りでない「中の人」の個性を発するキャラクターです。

 それも配信という形で一方向に話しているので、双方向でのコミュニケーションが苦手な典藻にも安心な存在です。
 外を歩いていて、あるいは学校/職場で話しかけられた時に「この人は誰だっけ? 初対面? どこかで何かを共にした人?」と考えながら、相手の話す内容や雰囲気で誰であるかを特定するまでの気持ち悪さと恐怖感を味わう必要がないというのは、とてもとても安心です。


 そんな好ましい要素で形成されているVtuberではありますが、彼ら彼女らの配信を見るには心理的なハードルがあります。
 典藻は熱心にネットの隅々まで新人Vtuberを探してさまよっているわけでもありませんので、典藻が目にする対象であるからには、彼ら彼女らは既に一定の知名度を得て活躍している方ばかりです。
 即ち喋りやその他知識教養あるいは一芸で人を魅了する才覚のある人々です。

 意味無し価値無し能無しの典藻キロクとしましては、そういった輝ける星々を目にすると、才能の違い、自身の努力不足、生命としての存在の無意義さを思い知らされ、劣等感に胸を掻き毟りたくなるのです。
 なので、心が弱っている時に不意に見るのは抑鬱感情の強化につながる可能性があるものとして、慎重に触れるべきコンテンツであると認識しています。
 
 それと共に、受けるダメージ以上の「癒し」を得られる配信なら話は別であるとも考えています。


 前職場にて、みなし残業という定額働き放題プランで日付の変わるまで事務所にいたり、日によっては会社の駐車場で車中泊して凍え死にそうになったりといった生活をしていたころのこと。
 他部署の人間も皆退勤し、事務所にたったひとりになる時間帯。
 おばけや虫や終わらない仕事に心細く泣き出しそうになる中、落涙せずにいたのは作業用BGMとしてニュイ・ソシエール女史の配信アーカイブを聴いていたからです。
 あくまで配信に心を救われた者のひとりでしかない典藻が女史の魅力について特段語るようなことはしませんが、Vtuberというのは良いものだと認識し始めたのはこの頃からです。
 

 今ではすっかり動画を更新しなくなっていますが、元をたどれば「典藻キロク」はわたしがYoutubeに動画投稿をする為に用意したアバターです。
 ヴァーチャルな体を持ちYoutubeに動画を投稿しているのですから、非常に非常にひっじょ~うに広義の意味で言えば、わたし自身もVtuberであります。
 斯様に偽Vtubeとして、或いは似非ブロガーとして活動者モドキとして振る舞うに至ったのは「誰かに癒しを提供できれば」という思いが発端にあります。
 ギリギリな当時の典藻の救いになったニュイ女史のように、動画を見る誰かにとってほんの少しでも「楽しい」を与えられればという傲慢さによるものです。わたしにそんなことができるわけないのに。

推し活とは「推死活」と見つけたり

 さて、そんなこんなで劣等感による自傷ダメージ以上に何かを得られる「好きなキャラクター(配信者)」としての「推し」のVtuberは数名います。

 とはいえ、スーパーチャット、所謂投げ銭を行ったのは、ニュイ女史の3Dお披露目配信の時だけでして、それも200円だけという非常に情けない少額さです。
 心を救ってくれた相手とはいえ、自身の生活の方が大事なのです。
 労働という換金システムに命と時間と自尊心を差し出して得た賃金から捻出するわけですから、どこかの誰かの言葉をもじるなら「金は命と同等に重い」のです。


 しかし、ここ数か月の典藻はおかしい。
 そんな命を易々と差し出す「推し」ができてしまいました。
 いえ、易々とというのは語弊があります。
 朝食は無しにして、昼食はスーパーの見切り品の惣菜パン2~3個。欲しいフィギュアの購入を諦め、たまの贅沢にしていたハンバーガーなんかを食べにいく機会も減らし、そうして捻出した命と等価値のお金です。

 この異常な行動について、考察ごっこが好きな典藻の自己分析によれば、「ファンのひとりとして推しに認知されたい」「その輝きを見続けたいから活動を続けてほしい」という身勝手な欲望が動機になっているものと結論づけました。なんて悪辣な精神。
 自分が起こした行動に対して推しから反応がもらえれば、それはとても嬉しいことです。
 しかし、人畜有害で関わる人間を傷つけるばかりの典藻の存在は推し自身にも他のファンにも、決して有益なものではないと自覚しています。これを自覚していればこそ、信奉者に踏みとどまり狂信者にならずに済んでいます。


 それでも反応がもらいたくてコメントなんかを送ってしまう日もあります。自分が有害であるとわかっているのに身勝手を辞められないのは、流石わたし。まるでストーカー。なにも反省していない社会不適合者。いつまで経ってもヒトになれないヒトモドキ。悲しいね。


 相手が活動者としてのキャラクターを演じている以上、アバターの向こうにいる「中の人」の本心を知ることはできません。
 ですが、「仕事」として活動しているのならば、よいファンというのは気持ち悪いコメントなぞ送らずに黙って金品を差し出すファンの事なのではないかと。
 リップサービスのコメント返しを真に受けず、ただ黙して「貢ぐ」のが典藻のような者には相応しいのではないかと。

 推しとの交流は、もっと意味や価値や能力のある人物が行えばよいのです。その方が推しの人生も豊かになりましょう。意味無し価値無し能無しで半端者の典藻キロクにその資格はありません。
 応援するなどおこがましい。お前の応援なぞ鬱陶しいだけ。何の効果があるものか。

 まあ、そんなことを言っていても、きっとまたコメントを送るのでしょう。
 「認知してもらいたい」「反応がほしい」という欲に自制の効かない異常精神。典藻なんかに目をつけられた推しに、つくづく申し訳ない。
 

 
 食事や余暇、蒐集などの種々の楽しみを削り、自己嫌悪や劣等感で自傷自罰の感情に苛まれる。
 心身への影響は決してよいものではないでしょう。つまりは命がけ。文字通りの死活問題。
 推し活とは「推死活」なのです。


 文明を発展させるような才能があるわけでもなく、社会を支えるような目覚ましい労働力であるわけでもなく、種の存続の為の繁殖に貢献する意思もない。
 そんなわたしの命を燃料に推しを輝かせられるなら、文明的に社会的に人類的には有益なことでしょう。

 正しくないわたしが為せる数少ない正しき行いのひとつが「推死活」なのでしょう。
 身の丈に合わないパトロンごっこで誰かの役に立っているつもりの、何者にもなれない愚か者ではありますが。

おわりに

 少し長くなってしまいましたが、まとめに入りましょう。

 典藻キロクが健全なファン活動に臨むのであれば、「コメントは控え目に。本当に偶にでも相手に時間をとらせるという迷惑を自覚する」ということと「認知してもらおうなどというのはおこがましい。黙って金を出せ」というのが結論です。
 Vtuberという役を羽織っていても相手は人間です。人間相手に典藻が好かれることはなかろうという前提で動くべきです。
 ……真剣に考えるほど、気持ちが暗くなりますね。光り輝く者を想えば、心の影は濃く深く強くなるのです。

 しかしそれでも気持ちが止まらないのが「推し」ということなのでしょう。
 理屈や理性を置き去りにして応援したいという気持ち。これこそが「推し」という概念なのだと思います。
 推しの応援の為に命を対価にする。故に推し活とは「推死活」です。
 




 ところで、ここまではあくまで活動者に対しての「推し」の認識の話でした。
 最後に、すべてのカテゴリの中での一番の「推し」について触れるならば、それは妻のことです。

 おそらくこの宇宙で唯一のわたしの理解者。聡明で品がよくベリーキュート。わたしの囚われているアニミズム的な認識にも理解を示してくれる。
 よいところ、感謝すべきところを数えれば枚挙にいとまがないです。完全究極のパートナーです。

 わたしを人間扱いしてくれる母のもとに産まれただけでも幸運A+++だと思っていましたが、妻に出会えたことで幸運EXを確信しました。

 そんな妻ともいつかは死に別れる時が来ます。
 天寿をまっとうしたとて、多分、わたしが先に死ぬと思います。
 その時に少しは惜しんでもらえるくらいには好かれているとよいなあと願ってやみません。

コメント

  1. まつ より:

    おはようございます(*^^*)

    何と素敵な締めくくり方ですか😭
    奥様はそのように思われていてとても幸せですね☺️
    きっとこの記事を読んだら幸せを感じると思います☺️
    そんな風に思われてみたいものです笑

    推しがいることも良いことですね!
    疲れている時が特にそれを実感いたします☺️

    キロク様がそんなに苦労して毎回お金を捻出していることを、心苦しくも有難い気持ちでいっぱいです!
    いつも有難うございます🙇‍♀️
    しかし!
    ちゃんとご飯は食べてください😳!
    忙しいんだから倒れちゃいますよ💦

    勝手に仲良しと感じており、
    そしていつも勝手に心配しております😭

    朝からキモコメント失礼いたしました☺️笑

    • 典藻キロク より:

      コメントありがとうございます。
      いつもお気遣い&ご心配くださり嬉しく思います。

      推しの存在はよいものである一方、一歩間違えれば一線を超えそうな不安感が伴います。
      「反転アンチ」なるものにならないよう、気を付けながら推し活に臨みたいと思います。

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