冒頭文:ジカイシンと銘打って
受診をしなければ、診断が下されないので、いくら具合が悪くても病気と確定するわけではありません。そして、病気でないのなら、病院に行く用事はありません。
五体満足かつ比較的頑丈な体で生まれる事ができた者の責任として、自分より困っている多くの人のためにも、わたしなぞに無駄な医療費をかけるべきではないのです。
(かといって全額自己負担で診察費や薬代を払えるほどの経済力もない)
……そのように思っていましたが、つい最近「心の病院」にかかるべきかと思い直しております。
どうも心か頭かがおかしいようで、わたしに好意的に接してくださる数少ない大事な方々に迷惑をかけたり悲しませたりすることがありました。
具合が悪くても自分が苦しいだけならよかろうという考えでしたが、他人に迷惑をかけるならばその限りではありません。
常に考えなし見切り発車どんぶり勘定ノープランノータリンのわたしですので、「そうだ、病院行こう」と京都に行くぐらいの軽い気持ちでいましたが、そう簡単な話でもなく。
要電話予約かつ平日+土曜の〇時~〇時という診察時間の都合により、電話が苦手+急な仕事が入るので先の予定がわからない+指定時間に指定場所に向かうだけの気力が維持できるか? という資三重の障壁に阻まれて「いつか! いつか行くから!」とやる気だけがある状態になりました。
そのように足踏みしている間に、すばやく諸々のご助言をいただきまして、「とりあえず受診する」ではなく「主訴をしっかりさせてから受診する」に方針を変更しました。その節はありがとうございました。
主訴を定めるためにも、何に困っているのかということと、その原因と目されるものを特定するために、あれこれと記憶と感情を文章にして整理してみようと試みる次第にございます。
ちょうど、直近にトラウマトリガーが暴れたときも、文章にすることで2日で鎮められましたし、少なからず自身に向き合う方法として有効なものと考えます。
自身のトラウマと人間関係を構築できない悪癖をどうにかする為に、嫌な事や悲しい事、それらに関する事を思い出しつつ文章にして整理します。
心は定量化できないものですが、文章を読むことで書いた人間の心情を推し量ることができるのなら、自分で文章にして自分で読めば、自身の心を推し量ることもまた可能でしょう。
何回かに分けた記事になると思いますので、最初からシリーズ名をつけておきます。
自ら開く心、自ら解く心、自ら悔いる心、自ら壊す心、自ら戒める心、自ら改める心……等々で自カイ心とします。憧れの英雄にあやかって「ジカイシン」です。何事もまずは形から入るタイプです。
そもそもひとを信じていたなら先日のアレは無かったはず
さて、今回罪悪感やら恐怖心やらといったものに向き合うきっかけになった先日のトラウマトリガーですが、わたしが相手をちゃんと信じていれば、そもそもあんなことにはならなかったものと思います。
冷静になってみれば全然そんなことを言われていなかったのに、「拒絶」と「犯罪者(予備軍)扱い」をされたと思い込み具合を悪くしてしまいました。全然まったく露ほども、そんなこと言われてなかったのにもかかわらずです。
言葉の上ではまったく他意がないとわかるはずのものに対して、言葉の裏を邪推して傷つくというのは、先日のアレ以前にも度々ありました。その度に、「この言葉に悪意はない。仮にあっても大きな問題になるほど傷つくものではない」と自分に言い聞かせることで解決をしていました。
こうして振り返って見れば、この時点ですでにわずかにでも「相手の言葉に傷つく」状態であったので、先日のアレを勘違いしていなくても、いずれにせよ遠からず予想だにしないダメージを受けていたと思います。
それだけ存在しない悪意・害意・敵意のようなものを勝手に想像して、拒絶されることを怖がっていたわけですね。
これはつまり、「相手が自分を傷つけるかもしれない」と疑っているわけです。実際に、先日の勘違いは「相手が自分に対して『ひどいこと』を言うわけがない」と心の底から信じていたなら、起こりえないものでした。
他人を信用できないくせに他人に関わろうとした自分が悪い……で済ませてしまえば、また同じことを繰り返します。
文章化によって整理をつけながら、この問題点をどうにかしたいところですね。
常にひとの言葉の裏を疑う
先にも触れましたが、今回の事に限らず、言葉としては意味しないはずの「言葉の裏」を常に疑うという悪癖がわたしにはあるようです。
ところで、わたしもよい歳をしたオジサンですので社会人として振舞って久しいです。
なので、世間には社交辞令というものが溢れていることを知っています。
たとえば、
むしろ普段お世話をしている側でも「いつも大変お世話になっております」。
相手方の都合で夜間に面談することがあっても「夜分にお時間ちょうだいしまして申し訳ございません」。
取引先の不手際でスケジュールが乱されても「全然大丈夫ですよ。お気になさらないでください」。
エトセトラエトセトラ、ケセラセラ。
これらは人間関係を円滑にまわす為の嘘です。ちょっとした嘘をつくことで相手が気分よく対応できるのなら、行動に要する労力に対して、非常に高い効果を得られていると考えます。
嘘つきは泥棒の始まりと申しますが、意固地になって少しの嘘もつかずに関係を悪化させるのなら、それが必ずしも「正しい」振る舞いとは言い切れません。少なくとも、いちサラリーマンとしては「嘘をつかない」という善性よりも、会社と社会のためにより多くの人間が幸せになるための嘘をつくというのが「正しい」ものと考えます。
そういった社交辞令という嘘が世にはびこっているわけです。
世の中に嘘があふれていると頭で理解する一方で、トラウマまわりの経緯と高校の頃の出来事から、「信頼していた人が実は自分を裏で悪く言っていた/指さして嗤っていた」ということに対して非常に傷つきやすくなっています。
社交辞令やリップサービス、お世辞に気づかい、やさしい嘘というのは、わたしにとっては警戒すべきものです。なにせ、やさしい言葉の裏で相手が何を考えているのか分からない以上、「裏で悪く言われている」可能性が常にあるわけです。
これらがあるので、裏切られたときの為の予防線として、基本的に相手の言葉に裏があるものとして捉える癖がついたものと思います。
言葉の裏には皮肉や嫌味があるかもしれませんし、高校時代の彼らのようにわたしの「作品」を仲間内で笑いものにしているかもしれません。あるいは優しい言葉で理解を示してくれていたように見えて、わたしをストーカーと呼んだ彼女のように。
優しくされたり褒められたりして嬉しくなったところで、後から「本当」を知ってしまったらあまりにショックが大きくなります。だから、後から知ることになるかもしれない、言葉の裏にある「本当」を予想するのです。
そうしていれば、いざその時が来ても「知ってたし」「別に傷つかないし」と自分を誤魔化して強がることもできます。これが予防線です。
しかし、実際のところは、わたしを裏切るどころか心配してくださる方々のことまで疑ってしまっていたわけですから、予防線になるどころか裏切られる事や騙される事へ過敏になりすぎているように思います。
憧れのヒーロー……の親友は「100回人を裏切ったやつより、100回裏切られてバカを見た人間のほうが、僕は好きだな」と言っていました。
何回裏切られるとしても、人間に絶望せず、裏切る側でなく裏切られる側に立ちたいです。裏切られるということは、相手を信じていたという前提があるわけですから。
他人をちゃんと信じられる人間になりたいですね。
ひとに相談せずにひとりで考える
存在しない「ひどい言葉」が頭の中でぐるぐるし続けて気を病んでしまうのは、悩んだ時に相談できる相手がいないというのも大きいと思います。
ひとの言葉を疑うという悪癖の延長線上に、他人を信用していない=悩み事という弱点を打ち明けられないという派生形の悪癖があります。言葉を疑うことと噛み合いがよいと言うべきか悪いと言うべきか、他人の言葉に傷ついたときにそれを打ち明けて感情を整理できない為、ずーっと心にトゲが残ったままになります。
ひとに相談しても自分の想定しない回答が得られるとも思っていないというのもあります。深い人間関係を築けない為、仮に相談相手になってくれるひとがいるとして、それこそ社交辞令に類する当たり障りのないありきたりな助言を得るに留まると想像しています。これでは自分にとっても相手にとっても、まるで建設的でない無駄な時間になってしまいます。他人の時間を奪うことは重罪です。
社交辞令を言わないであろう信頼できる相手、「わたし」がどういう人間かある程度わかった上で話を聞いてくれそうな相手とするなら、妻か母ぐらいしかいません。
しかし、妻は「真面目な話をしているわたし」を「怖い。怒ってる」と評します。妻を怖がらせたくはないので、真面目な相談はしません。
母はこれまで色々と苦労してわたしと弟を育ててくれた人です。余生ぐらいは穏やかに過ごしてほしいです。余計な心配はかけたくありません。
となると、何かに悩んだ時に相談できる相手というのはやはり思い当たりません。
しかし、わたしを悩ませる物事は、わたしを呪うものではあっても、わたしを殺すものではありません。殺される/死ぬわけでないのなら、解決せずにずっと悩んでいても大きな問題にはなりません。死なないのなら大した問題ではありませんし、仮に死に至るものだとしてもそれで悩みから解放されるなら、救いと捉えることもできます。どちらに転んでも「問題ではない」のなら、文字通り問題視すべきことではありません。
……という風にひとりで抱えこんだ結果として、先日のアレで他人に迷惑をかけました。
ひとさまに迷惑がかかるのなら、それは問題です。解決すべき課題です。誰かに相談すべき議題です。
どうしても足を引っ張るのが、他人を信用しないという根本的な悪癖です。
相談した相手が「このあいだ、あいつから○○って相談されてさー」「えーマジきもーい」などとヒソヒソクスクス嘲られるかもしれないと思うと、怖いやら悲しいやら恥ずかしいやらで頭の中がぐちゃぐちゃになります。
今回のまとめ
わたしが他人を信用していないというのが、自分や相手を傷つける原因になっているものと考えます。
他人の言葉を疑うという悪癖が身に着くに至った経緯については心当たりがあるので、これは追々整理します。
自分が相手を信じない事には、相手も自分を信じてくれません。
それはわかっていますので、好きな人(言葉のあや)に対しては精一杯誠実に接しているつもりです。「わたしはあなたを信じていますよ」という姿を見せているつもりです。
だけれども、肝心のわたし自身の心のどこかで「この人もいつかわたしを見捨てる/裏切る/嘲笑うかもしれない」という不安が渦巻いています。自分が相手を信じ切れていないから、相手も自分を信じてくれないだろうと思い込んで、余計に相手を信じられない悪循環です。
相手を疑う癖の原因が「裏切られることへの恐怖」にあるのなら、その元になる苦い思い出を消化することが解決につながるかもしれません。
または、相手が自分に嘘をついていたとしても平気でいられるよう感情のコントロールができるようになれば、それでもよいでしょう。
次回はこのあたりのことについて考えられたらと思います。
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