推し活というものが未だよくわからず、日々「これはやってもよいだろう」「これはやめておこう」と正否のわからない判断を下しています。
もとより他人との距離感が適切にとれない性分なものですから、なおのこと気を付けなければなりません。こういったことを相談できる相手もいないので、ひとり悩むのが常となっています。その悩みを解消するヒントになればと、V活動や推し活に関する発信をしている活動者の言葉を参考にし、気づきを得たりもしています。
先日、某ユニコーンの第一人者の切り抜き動画を視聴していましたところ、「注意喚起は本来伝えたい相手より、何もしていない人達が傷つく傾向にある」という話題がありました。中傷であったり、厄介な行動をとる相手に対して発した注意喚起が本人に届かず、まともなファンを委縮させてしまいがちであるという話でした。
何の害もない真っ当なファンが「気づかずやっていたらスミマセン」と言う中で、当人が「そんなやべー奴がいるのか許せねー」と呑気に言っていたとか何とか。
なぜ当人に届かないかといえば、「自覚が無いから」でないかとおっしゃれていました。
なるほど。耳の痛い話です。心も痛い。
憧れのアウトサイダーズに倣うのなら、「知らずやることすべてがこうだ」というのがわたしです。終身不名誉ストーカー、永世天然ハラスメンター。記事冒頭の「これはやってもよいだろう」がダメだったということもあります。その判断が正しく行えるほど他人の気持ちがわかるのなら、人間関係に苦労しません。
馬の耳に念仏。わたしの耳に注意喚起。です。
意識しなければ自分事として受け取らないのですから、とりあえずネガティブなものについては自分が対象に含まれると思っておくのが安全策です。今回のことがなくとも、もとより「ネガティブな発信は自分も対象に含まれる。ポジティブな発信を自分に向けたものと勘違いしない」と肝に銘じてSNSを利用しています。
……ですが、これを「気を付けているから大丈夫」と思ってしまうのが、おそらく無自覚厄介ファンというものです。もっと気をつけろ。精神を病むぐらい気をつけろ。
これまでの人生を振り返るに、基本的に他人を不快にさせる性格であることは間違いないのです。であれば、他人と関わらないというのが正解です。自分の言葉で他人を悲しませれば、わたしもまた悲しくなります。トゥーマッチなナーバス。
しかし、それでは味気ないのです。人間は嫌いですが、少しぐらいは人間と関わっていたいのです。
正解がとれないのなら次善策。最適解は「口を出さずに金を出せ」というものでしょう。
口を開けば(あるいはタイピングをすれば)余計なことしか言わないのですから、言葉は無用の長物です。そのあたりのことは適切な距離感というものを心得た方々に任せておけばよいのです。適材適所とも申しましょう。
わたしは言葉を介さずに応援ができる。相手は厄介ファンからの言葉を受けずに支援を受けられる。これなら森崎-晴家でしょう。いえ、ウィン-ウィンでしょう。
件の切り抜き動画の「注意喚起は~」というのが活動者の間でよくあることならば、わたしは本当によく気をつけなければなりません。自覚を持たないというのが主因であるなら、気づかずに有害な存在になっている可能性が誰にでもあるわけです。自分がバケモノになっていることにも気づかずに人間と交わろとする恐怖。身が震えますね。
ネガティブな発信は自分を対象に含んだもの、ポジティブな発信は自分を対象としないものという予防策をとりつつ、知らずバケモノにならずに済む方法がないかを模索したいところです。
推しの「注意喚起」を受け止める

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