カオナシという蔑称について

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 主にインターネット上で用いられる蔑称に「カオナシ」というものがあると聞きました。
 Vtuberに投げ銭を行うファンの一部を揶揄する表現のようです。「自分の言葉がなく、コミュニケーション不全で、金品を差し出すことで気を引こうとする」様子が「千と千尋の神隠し」のキャラクターであるカオナシを思わせるのだとか。また、「気に入らないことがあったときにそれまでの態度から一変して大暴れする」のもカオナシを想起させるという意見も見ました。
 SNSは毒になるなあ、と思いつつ、他人事ではない話です。

 
 特徴だけみれば、少なからずわたしも「カオナシ」でしょう。
 常々、意味なし価値なし能無し名無しを自称しているわたしですから、この呼称との親和性はあります。悔しいですが。
 

 しかし、わたしなりに理由があってカオナシになっています。
 いえ、相手の事情や理由など知りもせずに一方的にぶつけるのが蔑称であるというのはわかっています。ですので、カオナシにも事情があるのを分かってほしいなどとは思いません。人間らしく、相互不理解でいきましょう。
 ここはわたしの個人ブログですから、わたしの個人的な意見を書いたところで誰に文句を言われる筋合いもありません。一方的に蔑称をぶつけられるのなら、一方的に私見を発信しましょう。


 
 ブログという言葉を扱う趣味を持ってはいますが、わたしの言葉に何らかの価値があると思ってはいません。価値がゼロならまだよいのです。それどころか、経験上、わたしの言葉はマイナスです。相手を不快にするものです。
 そんなマイナスの言葉なら、「自分の言葉」として口にするべきではありません。
 わたしは推しに幸せになってほしいのです。その願望に対して、マイナス価値の言葉は不要なものです。推しの幸福になんら寄与しない言葉に発する意味はありません。言葉を向けることがマイナスになるのですから、むしろ発さないことがプラスとすら言えます。
(それをわかっていながら言葉を伝えてしまう不敬を働くこともありますので、反省が足りていませんが)

 一方で、金品というものは誰から受け取ってもその価値は変わりません。じいちゃんのくれた大切な一万円であっても「金は所詮金よ」とタマちゃん先輩も言っていました。
 幸福に金銭は必須のものではないかもしれませんが、金銭があった方が幸福に近づくことに疑う余地はありません。これを贈るということは、推しの幸福に寄与する行動であると考えます。

 であるのなら、言葉を慎み金品を贈るというのが、わたしという個人のとれる最良の応援の形でしょう。口は出さずに金を出せ。実に論理的ですね。論理的カオナシ。ロンリー的カオナシ。
 


 劇中のカオナシは、千の望むこともわからず、金(偽物でしたが)で気を引こうとしていました。きっとわたしも同じでしょう。行動に理由が伴ってはいても、その結果が望むものに繋がるとは限りません。
 推しの幸福という大目標に対して、わたしが自身でとれる選択肢は多くありません。自分自身に価値があるのなら、交流を持つことそのものが相手の幸福につながるという考えもあるでしょう。これは残念ながら、わたしには関係のない話です。なにせ意味なし価値なし能無し名無し、ついでにカオナシのわたしですので。
 カオナシは、ハクでも釜爺でも湯婆婆でもなく、カオナシなのです。言葉を介した交流だとかそういったことは、意味や価値のある方々に任せておけばよいのです。それぞれ適した役回りというものがあります。


 自分がカオナシと呼ばれる類のファンであると知って少なからずダメージを受けましたが、これをきっかけに、劇中のカオナシのように暴れることはしないように一層気を引き締めたいと思います。
 それにしても、随分しっくりとくる(それ故にとても酷い)あだ名を考える人がいたものですね。他人を嘲って傷つけようとすることに精を出す性根の悪さに感心します。

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