愛は重めがよい
愛とレディの体重は、多少……いえ、それなりに重たいぐらいでちょうどよいと思うのです。重いに越したことはないでしょう。
失敬。ややフェティシズムが漏れました。愛です。愛の話です。
残念ながら他者愛というものがないわたしですが、自身に向けてもらうのなら愛は重めがよいです。
以前に妻に対して「○○さんは『愛が重い』っていうタイプじゃないよね。ちょうどよい『重さ』」と投げかけた際に「どうやら俺の『重さ』をわかっていないようだな」と返されました。「受け取る側が負担に感じないのなら、それは『重く』はない」と続けたら、なるほどと納得していました。
他人から受ける愛は重めがよいですし、どうやら妻からの感情は重めらしいのです。一方で、わたしにはまったく重荷にはなりません。つまり、需給が一致したちょうどよい状態です。負担に感じることのない、適度に重い愛です。過不足なく、理想的に心地よい空気感です。
他人に求めてばかりで自分はできていない
逆に、わたしが他者に向ける感情は適度なものでしょうか。わたし自身が他人に求める「重い愛」を、わたし自身は向けられるのでしょうか。
少なくとも、妻からは「重い」と言われたことはありません。重荷にはなっていないそうです。
ただ、それが愛なのかといえば、怪しいところです。他者愛が無いと自認し、唯一あると思っていた自己愛も「本物ではない」と否定されており、暫定的に愛無き者となっています。持ち得るものを、あえて名付けるのならば、偽愛でしょうか。
重くない偽愛です。
妻以外に対してはどうでしょうか。
わたしが好きな人(言葉のあや含む)に向ける情念の湿っぽさ、粘っこさ、重さというものを、当ブログをお読みの方にはご理解いただけているかと思います。
好きな人というごく限られた対象ゆえに分散することもなく、形は違えど、それぞれに対して高出力です。ただ、これは、世間的に依存だとか執着だとか呼ばれるものだそうで、愛とはまた異なります。
重くはあっても愛ではない情念です。
なので、妻に対しても、それ以外の誰かに対しても、重い愛を向けることはできていません。
他人に求めるのに、自分では出来ないというのは、非常によろしくないですね。
愛ってなんだ
そもそも、自己愛あるいは偽愛しか持たず、他者への愛というものを持っていないのですから、向けようもありません。
持っていないというのは、もしかしたら適切な表現ではないかもしれません。他者に対してどのように振舞い、どのような感情を向けることを愛と呼ぶのかをわかっていないという方が、より正しい表現でしょう。
自分がしてもらって嬉しいことであったり、以前に喜んでもらえたことの反復行動であったり、わからないなりに相手の立場で考えて役に立ちそうなことであったりをしています。これらは、自分では真心というものを込めたつもりの行動であっても、所詮は「つもり」です。受け取る側がそう思わなければ、何の意味もありません。独りよがりのありがた迷惑です。
まっとうなヒトからみれば、ヒトを真似る怪物にでも見えているのでしょう。悲しいですね。
いやいや、お前がそう思っているだけで、その行動には「愛」だとか「人の心」だとか呼ばれるものが存在しているよ……とはおっしゃらないでください。
適切な距離感、適切な行動、適切な感情の動きを持てるのなら、人間関係を築けないこと/維持できないことに悩んだりしません。これまで生きてきて、好意の出力が適切であったことが無いのではないかと思っています。
現状で維持できている人間関係があったとして、それは相手方の度量に依存しているだけです。わたしの適切でない出力方法を受けて、縁を切らずにいてくださる寛大さに甘えているだけの状態です。もちろん、妻も含めてです。
宇宙刑事に曰く、愛とは「ためらわないこと」で「くやまないこと」だそうです。わたしが他者に向けているそれらしい感情については、躊躇いも悔やみもしていません。しかし、どうやら愛ではない。
愛ってなんだ。
コメント