「オタク」という呼称について

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冒頭文

 おはようございます。高校入学後、クラスでの強制自己紹介で「趣味は読書」と言っただけで笑われた典藻のりもキロクです。
 根に持ってはいますが、一方で当時のわたしが余程可笑しかったのだろうと思って、「よい思い出」などとラベリングしています。
 ゴンちゃんの言うところ、「笑わせるのと笑われるのでは、天と地ほども違う」とのこと。いつかはヒトを笑わせられるユーモラスを持ちたいところです。


 それはそれとして急に本題に入りますが、わたしは「オタク」を自称しません。
 いえまあ、便宜上、世間一般に浸透してしまったイメージを指して、ニュアンスを共有する為に已む無く使用することはありますが、極力自身を指して呼ぶことをしないよう心がけています。

 何故なら、わたしにとって「オタク」というのは尊称であり、自分で名乗るようなものではないからです。
 しかし世間的にはそうではない。認知的不協和。 


 ちなみに、「オタク」と表記すべきか「ヲタク」と表記すべきかと考えましたが、ここは典藻の思う尊称としての「オタク」を名乗るにふさわしい方が用いた表記に倣い、「オタク」表記を採用致します。
 

「オタク」は尊称

 典藻は研究者でもなんでもないので、オタクという言葉の語源や変遷について詳細に語ることはできません。
 しかし、一般に聞くところによれば、古き時代に蒐集家や好事家同士が趣味の交流をする際に、お互いを指して=二人称としてオタクと呼んでいたことが由来であるらしいことは知っています。

 この由来が正しいのであれば、本来は趣味仲間の間での、相手への敬意を込めた呼び名であったはずです。
 見識、情熱、愛、研鑽と求道……これらを趣味に向けられる方々。尊敬に値します。特別な尊称を向けるに相応しい存在であると思います。
 何かに人生をかけるということは、それだけで文化や文明の発展や回転に貢献するものではないでしょうか。言ってしまえば「魚類オタク」であるさかなクンさんを想像して頂ければ、よくわかるのではないかと。
 
 
 
 少し逸れた話をします。
 典藻は仕事において貸与なら13品目、販売なら9品目、その他にも複数品目を扱う職種にあります。
 正直なところ、ひとりで全ての品目を知り尽くすということはできない仕事です。なので、指定講習において講師の方からのアドバイスとして、「各ジャンルのオタクの知り合いを持て」というものがありました。
 ○○で困った時は○○オタクの誰それさんに訊けば全部解決! というような頼れる専門家と交流を持てということだそうです。
 ここで用いられた「オタク」は専門家や有識者というような意味合いを持ち、典藻の人生で数少ない尊称として用いられる「オタク」という表現で、大変に感動したのを覚えています。



 話を戻して。
 かつては敬意にの込められていたこの言葉。
 今は随分と軽んじられているように思います。自らを指して「オレ、○○オタクだから~」などと嘯く者を見る事さえあります。
 自身を専門家、有識者、プロフェッショナルと名乗れるとは何とまあ豪胆な……とは思いますまい。彼/彼女らの口にする「オタク」には異なる意味が込められているものと推察します。

ライトに用いられる「オタク」

 先に挙げました通り、昨今は「オレ、○○オタクだから~」と軽率に名乗られる「オタク」という名前。
 「○○が好き」ぐらいの軽い意味で用いられているように思います。

 アニメ視聴が好きならアニメオタク、ゲームで遊ぶことが趣味ならゲームオタク……。とても尊称として扱われているようには感じられない雑な扱いです。
 元来の意味で用いられるのなら、好きなアニメを研究し、ストーリー考察、制作の都合と完成品の因果関係、風説の流布を許さず論拠を提示してのうん蓄の披露、等々を行うのがオタクなのではない でしょうか。それも相手を選ばず誰彼構わずのべつ幕無しではなく、時と場所を弁えて同好の士との交流の中で行われるものなのではないでしょうか。

 何かの趣味において、専門家、愛好家、研究家、好事家、蒐集家……これらの要素を少しずつ包括していたのが「オタク」という呼称だったはずなのに、いまや「好き」という感情だけで名乗ることが出来るものに成り果てました。
 何ならば、自称することが出来るという事そのものが「オタク」という言葉の凋落を感じさせます。 

蔑称としての「オタク」

 軽んじられるだけならまだマシな扱いで、尊称どころか蔑称としての意味を含めて発言されるのを見聞きすることもあります。
 そういった表現では「根暗な人、気持ち悪い人、(自分には理解できない)悪趣味な人」といった意味合いで用いられているように読み取れます。

 古くからその土地で信じられてきた神様を悪魔扱いして腐すが如き所業です。
 つまりは、相手を「攻撃してもよいもの」として分類する為の便利な言葉として使われる側面があるということです。

 「アイツは根暗で陰険で気持ち悪い『オタク』だから、邪険に扱おうと陰口を叩こうといじめてしまおうと、オレたちには罪はない」というお題目を得ようという心理が見え隠れします。※当然ながら個人の見解です。
 言ってしまえばある意味での被差別階級の属性を相手に付与する為の言葉になっているということです。
 汝はオタク、罪ありき。です。この差別はよい差別であり、「オタク」を虐げる我らにこそ正義があり、正義とは気持ちのよいもの。です。

 かつての敬称尊称が軽々しく扱われてきた末に蔑称に成り果てるというのは、とてもとても悲しいことです。

言葉の意味は移ろうもの

 とはいえ、言葉の意味は時代ごとに変わっていくものです。
 これはTPOによって意味合いが異なるということではなく、「ツンデレ」や「壁ドン」のように、言葉が元来の意味とは別の意味を持つということです。

 例えばインターネット掲示板の中といった限られたコミュニティで使用されていた造語が、メディアが取り上げるなどの何かの切欠で世間に広まると同時に誤って伝播するということもありましょう。
 或いは、多くの人々がその言葉を用いるようになり、より便利な使い方ができるように変化するということもありましょう。

 「ときめく」という言葉はかつては「位の高い人の寵愛を受ける」というような意味であったそうです。
 これが変遷したのか、はたまた出自の異なる全くの別物なのか。現代では「(恋愛などでの)胸の高鳴り」の様な意味での同音異義語のような存在になっています。
 そうです。同音異義語です。

 現代における「オタク」もまた、尊称、愛称、蔑称のそれぞれの意味で用いられる複数の同音異義語なのではないでしょうか。……と思うことで自分を納得させています。




 また、あえて本来の意味とは異なる使い方をすることもありましょう。
 例えば「罪悪感」という言葉。
 罪の意識に苛まれることを指すものであるはずですが、昨今「高カロリーな飲食物を摂取することへの躊躇い」ぐらいの意味で用いられているのを目にします。
 初めてこの使い方を知ったときは驚きました。「自分のような卑しい身が、他者の命を血肉に変えて生きながらえることへの罪の意識」を指すのかとも思いましたが、文脈からしてそれほどの真剣みを感じられませんでした。
 誰にも許されず、寝ても覚めても頭から離れない事実と記憶に一生向き合い続けることが「罪悪感」ではないのか、と。
 随分と矮小化して用いられていますね。

 これに類することで「トラウマ」というのも矮小化した上で濫用されています。
 「心の疵」であるはずのものが「苦い思い出」程度の意味で一般に浸透しているように感じます。
 本当の「心の疵」なら、そう易々と「○○がトラウマで~」などとは開示できますまい。

 これらのように、本来の意味からあえて矮小化して、大衆がその意味をとらえやすい便利な言葉として用いることはままあります。
 似たような意味を持っていてもそのスケールが絶対的に違う、文学的表現として用いるのでなくただ俗語として広まっている言葉があるのは確かでしょう。
 「オタク」もまた便利な言葉として、元の尊称とは別の意味の俗語として定着した……のかもしれません。

おわりに

 いつものことながら、長々とまとまりの無い文章を連ねました。
 お読みくださった皆様におかれましては時間の浪費に他ならないものでしょうが、わたしは自分の考えの整理ができて少々すっきりしました。
 ここは典藻の個人ブログですからね! わたし個人の為に使われたとて咎める者はいないでしょう。

 あれやこれやと根拠のない持論を述べましたが、「こうあるべき」という堅苦しさは表現の幅を狭めるものであることは分かっています。
 尊称が蔑称に転じていることについて悲しさを覚えることは確かですが、だからといって然様な使い方をされる方がいたとして、これを責めることはしません。というか、できません。

 わたしとて、すべての言葉の成り立ちや自分の知らない本来の意味を無視して、発話や作文を行ってしまっていると思います。
 メフィストフェレスと契約したわけでもなしに、すべてを知ることなどできません。
 必ず無知の領域が存在しています。自分も誤用や濫用をしている言葉があるはずなのに他者の言葉遣いを糾弾するというのも随分と滑稽なことです。

 なので、自分の大事にする言葉はあくまで自分のものであり、他人に強制できるものでないと肝に銘じて今回の記事を終えたいと思います。
 あらやだ、わたしにあるまじき真面目な締めになってしまいましたわ。

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