人生の教科書とお金の価値

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「困っている人を助けられるから、お金には価値があるんですよ」

 ギャルゲを「人生の教科書」だとか「聖典」だとか呼んでいるわたしです。
 そうは言いつつ、大したことのない諸事情により、随分長い間まともに触れていません。当然のように、読み直すこともできていません。

 しかし、そこは多感な時期に触れた「人生の教科書」ですから、心に残るものがあるわけです。一言一句を違えずにそらんじることはできずとも、その意味するところを覚えているものがあるわけです。

 発売されたのが20年以上前であり、わたしが読んだのが17年ぐらい前という古い作品で「水夏」というゲームがあります。
 このゲームに登場する女将さんのセリフが、初めて読んだ時から、名言として心に残っておりました。

PCゲーム「水夏A.S+」より引用

「困っている人を助けられるから、お金には価値があるんですよ」
 
 宿無し文無し名無しの少女の面倒をみると宣言した時に、会話の流れで主人公に対して「大丈夫」と言ってみせた場面でのセリフです。

 当時は、言葉の意味はわかりつつ、そして、これを実行できる人間になれたらよいと思いつつ、しかし、そうはなれないのだろうとどこかで諦めていました。
 しいて言えば、困っている人(自分)を助けられるだけのお金を稼ぐ=自立するのが実現可能な範囲かと考えていました。当時からわたしが得意としていた拡大解釈による自己正当化の流れですね。

 まあ、精一杯、自分を正当化してみせても、真の意味では困っている人(他人)の為に、自分のお金を使えるだけの度量を持つことはないだろうとは、やはり思っていました。

無くす人あれば拾う神あり

2025/03/24ブルースカイ投稿

 ところで、少し前にブルースカイに投稿していました通り、出先でお金を無くす→翌日に戻ってくるという出来事がありました。

 近所のスーパーで電子マネーにお金を入れた後、おつりを取り忘れました。この出来事の少し前にトラウマトリガー云々でやや消耗していたことや、チャージ機におつり取り忘れ防止の音声案内がないことなどが重なってのケアレスミスでした。

 1万円札を入れて、2千円を入金しましたので、そのおつりは8千円です。8千円を無くしました。大金です。

 手元にあるはずの8千円が急に(実際には急ではないけれど)無くなったのですから、それはもう焦りました。しばらく昼食・夕食を減らすか無しにするか、他に何を削れるかとひとしきり考えました。
 考えた後に、取り戻せないだろうとは思いつつも、出来るだけのことはしようと心当たりのある(というか前日そこでしか財布を取り出していない)スーパーに電話をして、かくかくしかじか。

 電子マネーチャージ機の売上金? がちょうど8千円ずれていて原因がわからず困っていたとのことで、お互い困りごとが解決してハッピーラッキーみんなにとーどけ、という具合でした。
 誰しもがお金に困っているこのご時世に、ねこばばせずに取っておいてくださったことに、人情という物を感じます。

さらば諭吉とはいかずとも

 さて、なぜに女将さんのセリフの話のあとに、わたしが8千円を無くして取り戻した話をしたのでしょうか。
 そうですね。その8千円の使い道が、女将さんの言葉に沿ったものとなったからです。

 具体的に、いつ、何に使ったかという経緯は省略します。それを自分で言うのも野暮というものです。

 別の人生の教科書のセリフの「さらば諭吉!」というように、豪気に1万円を投じることはできませんでした。しかし、豪気さはなくとも、困っている誰かを助ける為に使うことで、わたしのお金に価値が生まれたものと思います。

 もとより、一度は無くしたお金です。その為に何かを制限するということも、一旦覚悟したわけです。ならば、これを惜しむのは道理ではありません。いや、惜しくはあります。大金ですから。
 ですが、はい。義を見てせざるは勇無きなり、とも申します。

 さらば諭吉とまではいかずとも、惜しむ気持ちは眠らせて、思い切りよくいくのが、義を見てすべきことなのでしょう。

気持ちよくお金を払いたい

 以前の記事↑の通り、せっかくお金を使うなら、その使い方は気持ちのよいものであってほしいのです。
 命を変換して得た金銭を介しているのに雑な対応をする相手には悪印象を持ちますし、他人の財布の中身を軽んじる相手に寄付をしたくはありません。

 お金というのは偉大なものです。
 聖人だろうと悪人だろうと、石油王だろうとわたしだろうと、10円を払えば平等にうまい棒が買えるのです。え? 今ってうまい棒を10円で買えないのですか?
 いえ、うまい棒はどうでもよいのです。モノの例えです。チーズ味でもコーンポタージュ味でも、どの味が好きであるかも関係ありません。

 お金は誰が使おうと、その金額に応じた対価を得ることが出来るものなのです。
 それを得る為に投じた時間や心身の労力というものが、各人で異なっていても、一度お金という形に変換されれば、10円は平等に10円の価値になります。10円玉だけに、平等です。鳳凰堂。

 10円は10円、8千円は8千円です。同じ8千円ならば、より価値のある使い方をすることが有意義であるはずです。
 わたしが持っていて私欲でくだらないことに使うのなら、困っている人の為に使った方が総合的に有意義と言えるでしょう。有意義な使い方であるのなら、それは気持ちのよい使い方です。

少しでも善き人に近づけるよう

 ギャルゲを人生の教科書にすることについて、色々と思うところのある方はいらっしゃるでしょう。わかります。わたしも思うところがないわけではありません。
 多感な時期に触れる機会が多かったものだから、そのようになっているだけであって、何かが少し違えば別のものが教科書になっていたと思います。

 しかし、学ぶところがあることは確かなのです。
 件の女将さんについて言えば、どのようなものがヒトの善性であるかということが学べます。
 創作物である以上は、その中で描かれる人物というのは、書き手の趣味嗜好や主義思想のみでなく、読み手が「そういうもの」として違和感なく受け入れられる振る舞いをするはずです。(作中世界の倫理観が現代社会に準じているのなら)作中で善良な人物として描かれているということは、少なくとも書き手が考える「読み手が善良と受け取る人物像」であるわけです。

 ここで言う読み手とは、一般多数の人間のことを指します。善良な人物として描かれるキャラクターの振る舞いは、現実の多くの人間が「善良」と受け取る人物像になるはずなのです。
 であるのなら、これをなぞることは、少しでも善き人に近づく助けになるでしょう。

 自己評価・他者評価ともに、人の心だとか、愛だとか、そういったものが無いのがわたしです。
 せめて、記号化された善良な人の振る舞いを真似て、悪性を中和することで、対外的に人の心というものを装うこともできるかもしれません。


 時に、腐れた性根の防臭剤。
 時に、捻じれた性格の矯正器具。
 時に、悪なる心情の鎮痛剤。
 そして、時に、わたしのようなヒトモドキにとっての「人生の教科書」です。


 今回のことで、教科書の教えをひとつ実行に移すことができました。
 一度無くしたはずのお金であったことと、タイミングよく(悪く)使い先が出来たことが重なったからこその実行であり、そう気軽に再現することはできません。本当なら、少しの小銭と明日のパンツだけを手元に置いて、残りの稼ぎを毎月寄付にでも回すのが善良さなのでしょうが、そこまでのことは出来ません。
 それでも、今回のこれが自己満足でなく、少しは価値のあるお金の使い方で、少しは善良な振る舞いであったのなら、幸いです。

 

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