唐突ですが、わたしはヒトよりもモノに愛着を持つ人格のようです。
ヒトは怖いです。
相手を傷つけるかもしれないし、相手が傷つけにくるかもしれません。それを思うだけで口からは呻き声が漏れるというものです。
それに、他人の名前も顔もろくに覚えられないわたしには、ヒトと関わるのは向いていません。覚えが悪いのは、きっとそもそも他人への興味が薄いからでしょう。
わたしが親愛を向けるほど、他人はわたしに親愛を向けてはくれないし、一方的に親しいと思っていた相手も気が付けばどこかに行ってしまいます。
その点、モノはよいです。
使い方を誤らなければ耐久年数を全うするまでわたしの傍にいてくれることが多いのですから。
しかし、モノでも気が付けばいなくなってしまうこともあります。
ペンを無くせば数日は引きずりますし、食器を割れば数年後でもふと思い出した時に落ち込みます。バスタオルは擦り切れても捨てられないし、靴は底に穴が空いてもしばらく履き続けます。
モノに心が宿ることはないのかもしれませんが、モノには対応する思い出が存在します。
どのように手に入れたか、どのような時に使っていたか、どのような時に助けてくれたか……。
モノを見れば思い出しますでしょう。
しかし思い出で腹は膨れませんし、思い出なぞに意味も価値もあるようなものではありません。
本日、妻が家の片付けの一環で、昔贈ったプラスチックのコップをハンマーで割って処分していました。
ひび割れてしまって食器としての機能を失っていたモノですので、捨てるのは当然です。
きっと気に入ってくれるだろうと選んでいたときの気持ち、そのコップが置かれていた幸せな食卓、そんな思い出に意味も価値もないことは理解しています。
かの有名な「鉄道模型のコピペ」だって、見方によれば合理的な話でしょう。思い出で生きてけるわけでなし。
正常なヒトはモノにそれほど執着したりないのも理解しています。
壊れれば捨ててしまえばよいし、買い替えればそれで済んでしまう話です。
モノに執着するわたしこそ、異常であるのです。
そもそもわたしは所詮、ヒトの群れに紛れているだけのヒトモドキです。
ヒトのすることで傷ついたとて、ヒトモドキなのだから仕方なしです。
思い出を叩き壊した相手が愛する相手だからこそ、この虚無感や悲嘆を向ける相手もなく、なおのこと感情の整理がつきません。
悪意が介在せず、誰に落ち度があるかといえば異常者であるわたしが悪いというだけの話。
わたしにも何かのボタンの掛け違いで、ヒトとして生きる人生があったのかな。
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