おはようございます。10年越しにアニメ版「Another」を見た為に、雪道でのスリップを過剰に恐れている典藻キロクです。
あれはある意味で危険予知トレーニングになる良作です。
視点がおかしい? いつものことです。
物語全体を通してハラハラしながらあっという間に1クール分を見てしまいました。他作品と比較するものではありませんが、なんとなく昔読んだ「六番目の小夜子」を思い出しながら視聴しました。
と、そんな話はともかくとしてですね。
ええ、今回はタイトルどおり、映画「大怪獣のあとしまつ」の感想です。
「最初に言っておく! 今回の感想も、かーなーり拙い!」
至極雑なあらすじ(ネタバレあり)
怪獣と呼称される巨大生物が東京を破壊する中、上空から降ってきた謎の光を受け、絶命。
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未曽有の災害が突然の終わりを迎え、国民が安堵する一方で、内閣ではこの怪獣の死骸をどのように扱うか検討していた。
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観光資源として活かすことで、莫大なインバウンドが見込めるという皮算用から、方法案も無いまま、死骸の”あとしまつ”を行うこととなる。
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主人公である特務隊・帯刀アラタが”あとしまつ”の役目を言い渡され、臨むこととなる。
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怪獣の死骸からは有毒なウイルスや放射能が発されていないことを(偽造されたデータで)確認し、首相が安全宣言を発表する。
(実際には未知の菌糸が検出されていた。)
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また、怪獣の呼称を「希望」とすると発表。
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「希望」の処理を行う中で、死骸の腐敗が進んだことで発生したガスの臭いが非常に不快なものであることが周知される。
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ガスの臭いがウ〇コかゲ〇かで言い争い、首相からの公式な発表では銀杏の匂いとされるが、これに反発した一部の国民がデモを起こす。
(話の本筋に関係ない)
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この悪臭が、死骸の中で発生したガスによって作られる腐敗隆起が破裂することで広範囲へ撒き散らされる為、その破裂を防ぐ手立てがあれやこれやと考案される。
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なんやかんやあり、「希望」を海へ流すことで悪臭ごと水中に閉じ込めることとなる。
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「希望」が横たわる河川の上流にあるダムを爆破することで、激流葬しようとするも失敗。
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ついでに、未知の菌糸により、ガスや体液を間近で浴びた人間の体中に謎のキノコが生えることが発覚する。
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ここまでの流れのなかで、主人公・アラタが過去に上空から飛来した謎の光球に触れて2年間行方不明になっていることなどが回想される。
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これまでに考案された方法のなかで、序盤に棄却された案を再利用し、「希望」の腐敗隆起からガスを抜くこととなる。
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国防の行おうとしている方法では精度が不十分で失敗すると考えたアラタは自ら「希望」の死骸によじ登り、ガス抜き穴を穿孔する。
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国防が予定通りに発射した小型ミサイルの爆風により、巨大怪獣である「希望」の上から落下するアラタ。しかし、墜落後もほぼ無傷。
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アラタが光の巨人に変身し、「希望」を宇宙へ運び去り、fin.
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予算を半分にして次回作もやるよ、と予告。
不快な点
・あからさまに実在の人物をモデルにしたキャラクターの存在。
・ステレオタイプな某国の表現。風刺なのかもしれないけれども。
・事前の予告から受けた印象とは、大きく異なる本編の雰囲気。
・結局、人智の及ぶ範囲では後始末ができなかったこと。
・あと、個人的に不倫は嫌いです。
擁護したい点
上記のように不快な点はあれど、典藻としては、「まあ悪くないんじゃないかな」ぐらいの評価です。
ということで、良かった点……ではなく、悪し様に言われそうな部分の擁護をば。
アラタの無謀な行動について
怪獣の死骸処理を命じられたアラタは、初期段階の腐敗隆起を発見した際に、ろくな防衛策も取らずに突いて破裂させ、未知の生物の体液とガスを全身に浴びました。この際、一緒にいた隊員も巻き添えを食っています。
結果的に大事に至らなかったとはいえ、のちに謎のキノコが生える可能性のあることも明かされており、賢明な行動だったとは言えません。
また、最終盤に「希望」に登り、超至近距離で穿孔作業を行ってもいます。この時には実際に体から謎のキノコが生える事態になっていました。
この行動に関しては、積み重なった失敗からくる責任感……と捉えることもできますが、やはりひとりの人間としては無謀が過ぎる行動です。
これらの無理無茶無謀について、「主人公だから」と一言で解決することができます。
ああいえ、もちろん投げやりな感想としてはでなくですね。
この作品には、機械仕掛けの神が明確に存在しています。
どんな滅茶苦茶な物語でも、最後に登場して「めでたしめでたし」とまとめてしまう万能の存在であるところの神がいるのなら、逆説的に、この作品は物語の世界であるということができるでしょう。
物語であるのなら、主人公に立ち振る舞いは必ずしも合理的なものでなく、情動的でありその場での思い付きであり、平たく言えばノリと勢いで構成されるものであっても不思議ではありません。
なぜなら、主人公という存在を物語的に活かす為の行動であり、一生物的に生かす為の行動である必要がないからです。
主人公を死に目にあわせようが、あるいはそれでも生還させようが、それはすべて作家の匙加減、いえ筆加減。
加えて言えば、設定上、アラタ自身が光の巨人であることからも、無謀の理由が考えられます。
彼自身が既にヒトとしての感覚を無くしてしまっているのなら、同行する隊員の安全に配慮しない行動をしようとも、自身の身の危険を顧みない行動をしようとも、やはり不思議はありません。
どんな展開になっても、最後には由来の不明な力で「めでたしめでたし」としてしまえるのですから。
政府、国民、マスコミの行動について
やれ怪獣のネーミングについて、やれガスの臭いについてと下らないことで都度紛糾する登場人物たちですが、これらについても擁護すべき点はあります。
未知なる脅威に対して、一発で百点満点の対策ができないのは当然。
それがたとえ利権絡みの人災であったとしても。
それに対して不満をぶつけたり粗さがしをしたり、政府への不信感から下らないことを根拠に「事実を隠蔽している」としてデモを起こす国民。
益体もない質問しかしないマスコミ。
このあたりは、なんというか、ほら、事実は小説より云々と言いますか、真に迫ると言いますか。
変に小綺麗にまとまって、お行儀よく、形よく、折り目正しく、整然とまとまっているより「それらしい」じゃあないですか。
どんなに散らかそうと、最後にはデウス・エクス・マキナがどうにかしてくれる筋書きなのですから、散らかさなきゃ損ソン、というところです。
デウス・エクス・マキナについて①
そして何より、デウス・エクス・マキナの存在です。
冒頭で怪獣が絶命するに至った謎の光の発生源であろう存在であり、最終的にその怪獣の死骸を宇宙へ運び去った光の巨人です。
まあ、早い話がウルトラマン的な存在として描写されています。
そんなデウス・エクス・マキナですが、怪獣を運び去れるなら最初からやりなさいよ、というのが当然の感想です。
ですが、それでは物語が始まりませんので、最初から変身することで出来ない理由もあったのでしょう。
――たとえば、怪獣を倒す光線の為にエネルギーを消耗し、一時的に変身できなくなっていた。
――たとえば、次に変身すると二度と人間に戻れない等の制約があった。
――たとえば、ギリギリまで頑張って踏ん張って、どうにもならないときにならないと変身できなかった。
――たとえば、宿主が絶命してマキナさんが体を乗っ取らなければ変身できなかった。
なあんて、妄想で行間を補完することで、多少の疑問はごまかせるというもの。
むしろ、明かされない設定については、好意的にでも悪意的にでも、あれこれと想像して自分なりに納得する理屈をつけるほうが、楽しめるというものです。
異論は認めますが。
デウス・エクス・マキナについて②
続いて同じくデウス・エクス・マキナについて。
デウス・エクス・マキナの存在そのものについての是非です。
この作品の事前予告を見る限りは、「無理難題に対して試行錯誤して、どうにか解決するんだろうな」との印象を受け、いざ鑑賞してみたらこの始末……ということで、デウス・エクス・マキナが存在することが反感を買うこともありましょう。
しかしながら、逆に、デウス・エクス・マキナでなければ解決できないという結論を示したかったのが、この映画のメッセージなのでないかとも思うのです。
作中で描写された怪獣災害とその事後処理は、未知の脅威といって差し支えないものです。
この未知の脅威というものは、直近でいえば、現実世界で猛威を振るっている例のウイルスに置き換えて考えることができます。
どのような対処方法が正しいのかわからない。
しかし動かなければ事態は収束しない。
かといって下手を打てば被害が拡大するばかりか、別の側面から二次被害が発生する。
未知であるということは、それだけで脅威なのです。
未知が既知になるまでに、どれだけの時間が必要なのかすらわからず。
その過程でどれだけの被害がでるかもわからず。
当然、その被害を甘んじて受ける者などありはせず。
これらはこの2、3年の間に、多くの人が現実に体験していることでしょう。
「大怪獣のあとしまつ」は、そういった未知の脅威に対しての解決策を模索する物語でありましたが、最終的に「人智の及ぶものではない」という結論に達したのでしょう。
故にデウス・エクス・マキナがすべてを解決したと。
この経過から、典藻が感じるところとしては、例のウイルスについて暗中模索五里霧中で進んだ結果、まだ収束していないという現実に対して、物語の中くらいはご都合主義が存在してほしい。
現実では立ち向かえない、未だ打倒しえない脅威への悲嘆から生まれた神なのでないかと、典藻はそう思うのです。
まとめ
総評として、「まあ悪くない」ぐらいの映画だったと思います。
正直なところをいえば、「シン・ゴジラ」や「前田建設ファンタジー営業部」、あるいは「空想科学読本」のように、実在しない課題に対して大真面目に考察し、現実的な解決策を提案するという試行錯誤と叡智の結晶のような作品を期待してはいたので、期待外れという感は否めません。
とはいえ、自分が期待したものと違ったからといって駄作と切り捨てるのは、筋の通らぬ話でしょう。
まあ、この作品自体、筋の通ったお話かというと、それも何か違う気はしますが。
なんにせよ、少なくとも出来の悪い物ではなかったと思います。
未知の脅威に対して、人類がいかに無力であるか、そして、ご都合主義の強制ハッピーエンドを望んでしまうのかという気持ちが具現化した作品であったのだと感じます。
予算が半分になった次回作があるらしいので、是非ともまた劇場に足を運びたいと思います。
ちなみに、今回一緒に映画を観た妻には不評でした。さもありなん。
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