そういうわたしはいつもニセモノ

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 おはようございます。小さいことを気にするのでゆってぃにはなれない典藻のりもキロクです。

 当ブログをお読み頂けている方でしたら、ここ最近投稿した記事の傾向として、わたしが言葉の意味するところやら何やら小さく細かいことを気にしているのをよくご存じかと思います。
 今回もまた、そんな小さなことのお話です。


 わたしは「誰かの偽物」であることを自覚しつつ、「本物のわたし」でありたいと思っております。
 我が聖典に曰く「人間の発想なんて今まで見聞きしたものから生まれるわけだからな。世の中の全てがパクりみたいなものだ」ということなので、どうあれ誰もが誰かの偽物という側面を持っている筈です。わたしもあなたもどこかの誰かの偽物なのです。


 しかし、偽物なりにどこかの誰かになろうとする内に、どこかの誰かじゃない自分に辿り着いて本物になるのだと思います。
 なので、わたしは偽物でもありつつ、いつかは本物になりたいと嘯くわけです。


 そうです。いつかは自分なりの答えを見つけて本物のわたしになりたいところです。
 しかし、まだまだ道半ばにして、ひとから見ればわたしは偽物。わたしの在り方は未だ物語と呼べず何かの真似事。言うなれば、者騙りものがたりに過ぎません。





 思えば昔から「○○に似ている」と「偽物扱い」されることを嫌っていました。

 小学校の時分、悪意の有無はわかりませんが、「ハリー・ポッチャリー」というあだ名をつけられ呼ばれていました。メガネをかけていて、太っていて、たまたま当時ハリーポッターが流行っていたからというだけの話です。ええ、大人になって見れば可愛らしい話です。ですが、当時のわたしにしてみれば容姿を揶揄された上に「偽物扱い」されているわけですから、極めて不快な悪口のひとつでした。まだ単純に「デブ!」と罵られる方がマシなぐらいです。いやそうでもないか。どちらも同じぐらい腹が立ちますね。




 
 しかし、冷静に考えればわたしは能力に優れる弟の下位互換でした。いわば弟の偽者だったわけです。自分が誰かの偽者なのだと、身近なヒトに思い知らされた青春時代。
 何事においても、先例を真似てそれらしく取り繕うだけ。常に何かの縮小再生産。それらしいだけの似せ物にせもの
 その後に上記の「人間の発想なんて~」というセリフに触れた救われるわけですが。




 誰かの真似事、誰かの偽者。フェイク、レプリケイト、イミテーション。これを受け入れ開き直ってしまったからには、在り方も変わるというもの。
 生憎と、いつもいつでも偽称偽装。真似事、受け売り、ハリボテ哀歌。
 本質的に悪性であるわたしが善を為そうと、それは偽善。
 軽薄な言葉を用いてわたしが愛を語ろうと、それは偽愛。
 とはいえ偽物なりの矜持もあるわけで、できるだけ真に迫るものではありたいのです。 
 誰もが誰かの偽物という大前提はさて置き、それでも「お前は偽物だ!」と見破られたくないのです。
 

 本物に迫る或いは勝ることを志すようになったのは「偽物が本物に敵わない、なんて道理はない」というセリフを読んでからです。
 字面だけならただの詭弁にも見えますが、前後の脈絡や演出も相まって、とてもかっこいいものに思えました。わたしにとってはこちらもまた、目から鱗が落ちるような体験でした。



 そういった経緯があるので、「誰かの偽物」が「誰かにとっての本物」に成る物語はわたしにとっての憧れであり、涙を誘う英雄譚です。

 たとえば「ウルトラマンオーブ」第9話 ニセモノのブルース。よいですよ、これは。まさに偽物が本物になる物語です。全話のうちの1話だけを観ればよいという手軽さもよいです。

 また、「非公認戦隊アキバレンジャー」及び同「シーズン痛」の全編。これもとてもよいです。偽物が本物になるというエピソードだけなら一部視聴でもよいのですが、そこに至るまでの積み重ねが重要なので、できれば全話通して観たいところです。今回の主旨である偽者云々を抜きにしても、スーパー戦隊シリーズのパロディとして最高峰の出来の作品でもあります。



 わたしもいつかは本物に至りたい。
 わたしにしか持てない何かを持ちたい。
 しかし、それまでは、偽物の誹りも甘んじて受けましょう。見破られるうちは、その未熟さが悪いのです。



 ニセモノとニセモノと競い合いっこをして、すぐ比べちゃう。
 どっちも本当は唯一なのだから大丈夫。
 ホンモノであると心を保ちましょう。
 そういうわたしはいつもニセモノ。

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