冒頭文
おはようございます。幼き日に「デジモンアドベンチャー」を見て以来、ひと夏の冒険に憧れのある典藻キロクです。
アドベンチャー、アバンチュール、オデッセイ……呼び方は何でもよいですが、ひと夏の冒険者になってみたい。地球の果てまで目指せ。
先日の記事で触れました通り、クレヨンしんちゃんの映画を観てきました。
昨年末ごろから、しんちゃんの歴代映画作品がモーレツに観たくなり、DVDを買い漁り、その楽しさに気づけば30作品をコンプリートしていましたもので、この夏に劇場で新作を観られることを楽しみにしておりました。
テーマが恐竜ということでしたので、しんちゃんの歴代映画のみでなく、予習としてドラえもんの映画「のび太の恐竜」「のび太の恐竜2006」「のび太の新恐竜」も視聴しておきました。べ、別にしんちゃんがドラえもんとネタ被りしてないかとか、粗さがしの為じゃないんだからねっ。
そんな具合で今回は、「映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記」の感想と考察の記事になります。
物語の根幹やオチにも多少触れるネタバレありの記事になりますので、ご了承ください。
感想
全体的な感想
まず前端的な感想として、良い映画だったのではないかと思います。
アニメ映画として、「夏の」アニメ映画として、クレヨンしんちゃんの映画として、恐竜映画として……様々な観点があるかとは思いますが、概ねどの視点で見ても一定の満足感が得られるものと思います。よほど斜に構えていなければの話ですが。
近年の映画しんちゃんにある(ように見える)ノルマ的な要素(ひろしの足が臭いだとか、みさえの尻がでかいだとか、マサオくんが調子に乗るだとか、親子愛・家族愛だとかファイヤーだとか)も自然に織り込んであり、引っかかりなくスムーズに話が進行していました。
また、お涙頂戴の感動モノでありますが、ところどころに不快にならない程度のギャグやお下品さもあり、典藻がリアルタイムで視聴していた頃のしんちゃんらしさが少しだけ見られて嬉しかったです。映画ではあまりない着ぐるみでのボケもあり、これも懐かしさを覚えました。
懐かしさといえば、地獄のセールスレディこと売間久里代が登場していたのがある種のサプライズ要素だったかもしれません。パンフレットの演者のインタビューにも「30年以上経って、ようやく映画に出演することが出来ました!」とあり、中々のレアキャラです。
序盤に「物価が上がるばかりで不景気」という風刺めいたセリフがあり、「おっと今回は説教臭かったり暗い雰囲気だったりするのかい?」と不安を覚えましたが、杞憂でした。会話の流れで「1度しかない5歳の夏」という、メタ的に見ればギャグにも聞こえるセリフで「ああこれなら大丈夫かも」と期待度が持ち直しました。
全体に散りばめられているギャグの配分も、大詰めの感動シーンを除けば大変よかったと思います。
え? 大詰めはダメだったのかですか? いえまあ、個人的な好みの話ですが、安否といいますか生死を確認するまでにやたら間を持たせていて、目をパチッと開けて「いや生きてるんかい!」というツッコミでみんな笑ってハッピーエンドだと思うじゃないですか。あの間はギャグの前振りだと思うじゃないですか。だって今回はギャグありの映画なんですもの。
キャラクターについて
上述の通り、売間さんが登場したほか、四郎さんやミッチー&ヨシりんや紅さそり隊など、春日部市民が多く、そして従来よりも長尺で登場してお祭り感がありました。
ゲストキャラクターも魅力的です。
ボスキャラのバブル・オドロキ―については後述するとして、ゲストヒロイン枠のアンジェラは可愛く頼りがいのあるおねいさん、しんちゃんたちと敵対することになるアンモナー伊藤も憎めない悪役、ゲストイケメンのビリーは……まあ外連味は少ないですが責任感のある大人だったと思います。
タイトルである「恐竜日記」としての主役であるスピノサウルスの幼体 ナナも可愛らしくてよかったです。
事前の予告映像などで見た時は好きになれるかビミョーなデザインでしたが、90分近くも見ていれば可愛く見えるし愛着も湧きます。デフォルメされたデザインとおよそ恐竜のイメージからはかけ離れた鳴き声など、キャラクターの受け入れとしてポケモンに親しむ感覚に近い物があります。
ドラえもんの恐竜映画に登場した子たちが海と空(一応)の恐竜だったので、陸の恐竜(泳げるけど)のナナはネタ被りを避けた綺麗な選定だったと思います。
そしてなにより、映画での出番が極端に少ない酢乙女あいちゃんにやや長めの出番があったのが嬉しいですね。これには全マサオくんが泣いた。典藻は喜んだ。
これまでのあいちゃんの出番は想像の中のものであったり、コンニャクが擬態したものであったり(本物も少し喋りましたけど)ばかりでろくにセリフもありませんでしたからね!
舞台装置として優秀な「お金持ち」でありながら、ありがちな導入に今まで一度も使われていなかったのが意外ですね。今回の出番は脚本上でのある種の「禁じ手」だったのではないかとも思ってしまいますが……。しかし、これは後述の考察におけるヒントのひとつになるので、重要な部分であります。
あいちゃんはかわいい。わたしはね、品があって育ちがよくて、お金持ちであることを過度に鼻にかけず、高貴で高潔な振る舞いのできる女性が好きなんですよ。それこそが真正のお嬢様だと思うのですよ。お嬢様、プリンセス、レディ。肩書はなんでもよいですが、これらの指すものは如何に着飾るかということになく、語尾に「ですわ」をつけているかということでもなく、ましてや生家の総資産の額にも依らず。心の在り方が強く優しく美しくGO! 輝くもののことを言うのだと思うのですよ。そんなあいちゃんに出番があるので、この映画は良作です。
あと、映画の度に「シロはかしこいなあ」「シロはかわいいなあ」と思う典藻ですが、今回も例に漏れず「シロはかしこくてかわいくて頼もしいなあ!」と終始感じていました。
シロにスポットライトが当たった映画「歌うケツだけ爆弾!」よりも大きな活躍をしていたと思います。
やたら豪華なゲスト声優
恐竜のナナの声を水樹奈々氏が演じているほか、安元洋貴氏、戸松遥氏、小林ゆう氏、金田朋子氏、内田真礼氏とゲストが非常に豪華でした。なんで?
「爆発! 温泉わくわく大決戦」にて田村ゆかり氏がゲストヒロインのひとりを演じていましたが、あちらは当該作品の公開時期にTV本編でも氏が様々なキャラクターに声を当てていた事からくる流れだと思います。
となると、最近のTV放送では上記のような豪華な面々が各回のゲストの声をあてているのでしょうか。それは……すごいですね。
ビジュアル面
恐竜の作画、終盤に登場して暴れまわるロボの作画、背景美術……。とにかく絵が綺麗な映画でした。
渋谷の街並みは「本物じゃん! 本物のシブヤじゃん!」と思うほどでした。わたし、渋谷いったことありませんが。
ロボのバトルシーンはすごかったですね。あのロボの可動フィギュアが欲しくなりました。グッズ化希望。
雨の中で恐竜に踏み壊される野原邸もよかったですね。これも映画ノルマである「ローンがまだ残っているのに!」のシーンになりますが、家が壊されることの絶望感とそれを差し置いても現場を離脱しないと命が危ないという恐竜の恐ろしさが存分に伝わるよい場面でした。
ロボット恐竜
本作に登場するナナ以外の恐竜はバブル・オドロキ―の指揮のもと開発されたロボットでした。
序盤に登場するものは客を欺くために本物感を追及して作られた見世物としてのロボットでした。機械ゆえに不具合が起きたりという部分からバブルの計画破綻につながってしまうわけですが、一見本物にしか見えないロボット恐竜を運用できるのは映画ボスとしてよい塩梅の超科学でした。
開発者の異なる中盤以降のものは、口から火を吐いたり、恐竜戦車や《古生代化石マシン スカルコンボイ》が脳裏をよぎるような走行形態に変形したりとロボットとしての面が強くなっていき、これもまたアクションでの見映えがよく、重要な役割を担っていたといえます。
ジュラシックパークを思わせるシーンもあり、恐竜が脅威として描かれていたのもよかったです。
終盤に登場するダジャレ恐竜たちですが、一見ただのギャグ要素に見えて後述の考察のヒントになる部分があり、必要なものであったと考えます。
そして、ラスボス枠(でよいですよね?)のロボット恐竜……いえ、恐竜ロボット。これもまたハチャメチャ加減が素晴らしい。あのトンデモ感はとても好みです。
また、全編を通して登場する恐竜の種類が多く、男の子にはワクワクするような映画だと思います。典藻も年甲斐もなくワクワクしておりました。
懐メロ枠?
監督も脚本もそれぞれ違う映画に対して抱くような認識ではないと思うのですが、しんちゃんの映画シリーズとして、もしかして「懐メロ枠」が導入されたのでしょうか。
昨年の深キョンに引き続き、今年はモー娘。の楽曲が流れるシーンがありました。
意味もなくねじ込まれたギャグシーンに見えましたが、実はこれ、もしかしたらとても重要なシーンだったのではと思う典藻です。後述の考察にて触れます。
やや尺が長かったようにも思いますが、このシーンの間ずっと笑いを堪えていたので、平成を生きた典藻には「刺さる」ギャグではあったと思います。平たく言えば、めっちゃ面白かった。です。
生命を取り扱うことの責任
本作のメインキャラである恐竜のナナは、ゲストイケメンのビリーの研究の結果生まれた「本物の恐竜」でした。
これは化石からの復元であったり、確かな科学理論に基づいたものではなく、偶発的に細胞の発生と分裂が起きて生まれた命です。
ミュウツーのような意図したものですらない、偶然に作られてしまった命です。
さらに、推定スピノサウルスです。仮に無人島などで育てたとしても、成長すれば海を渡って人間の居住地域に移動する可能性もある恐竜です。
歪な経緯で誕生し、しかも人類との共存が難しい存在のナナ。
そんなナナを「親として」手にかける覚悟のあったビリーは非常に立派だったと思います。
飼い切れないペットは放逐するのでなく、しっかり終わらせることまでは飼い主の責任ですからね。
バブル・オドロキ―の魅力
本作のボスキャラにあたるバブル・オドロキ―は魅力ある悪役だったと思います。
周囲からの期待に応えなけらばならないという強迫観念に突き動かされるがままに、初心を忘れて「世界中にアンビリーバブルを届ける」という言葉の表面だけをなぞるようになってしまった悲しき悪役に思えます。
それでいて、悪役として余分な同情が入らないよう、劇中では相応に「悪いこと」もしています。
ナナを追い回したり、実子を自分の所有物のように扱ったり、春日部や渋谷の街を壊したり、無辜の民を拉致監禁したり……列挙するとまあまあ規模の大きいことをしていたりもします。
しんちゃんの歴代映画を観ていると、敵味方含めて宇宙人、未来人、異世界人、超能力者という涼宮ハルヒも満足してくれるであろう人間や、人喰い植物や超巨大有袋類といったキャラクターたちが登場していますが、バブルは現代人ベースとしては中々によい活躍をしてくれたのではないかと思います。
本人だけに超技術があるわけでなく、あくまで求心力・資金力・企画力だけで事を起こしていたのもよかったと思います。人を動かす立場にいるというのは、もし期待に応えられなくなって周囲に人がいなくなれば自分だけでは何もできなくなるということ。強迫観念を持っているのなら、その現実に過度に不安や恐怖を覚えるものでしょうから、劇中の暴走もさもありなんと納得できます。
アン(ジェラ)+ビリー+バブル=アンビリーバブルになり、親子の名前を合わせたものが彼の口癖であるという点も魅力的です。
常々家族の名が連なった言葉を口にしながら、その実、家族同士での相互理解という繋がりは失われていました(姉弟も『父親は変わってしまった』という認識で済ませ、バブルの心の内を理解する者はついぞ現れませんでしたし)。家族の絆のようなものが形骸化している様が口癖からも見てとれるというのは、彼の立ち位置をわかりやすくする素晴らしいキャラ造型です。
彼の最後の登場シーン。空港で手錠をかけられ連行される中、取材陣に事件についてのコメントを求められた際に彼は口をつぐんで何ひとつ言葉を残しませんでした。
わたしはこのシーンが一番感動したかもしれません。
これまで他人から期待を寄せられ何かを求められれば、口から出まかせ根拠のないハッタリであってもその場を取り繕っていたバブルが無言という選択をした。これは反省であり成長であり進化であると思います。
周囲の期待に応えなければという妄執に駆られ、一方でその「周囲」が見えなくなっていた盲目の彼。ただ妄念のままに突き進むという姿勢が身に沁みついてしまった彼だからこそ、問いに対して口を開けば、発するのは虚言妄言不誠実な言葉になってしまうと自省しての自制だったのではないかと。
悪役として描かれながらも再起の余地が残される終わり方だったのはよかったのではないでしょうか。
根っからの悪”人”ではなく、生きている内に悪”役”になってしまったのがバブル・オドロキ―という人物だったのだと思います。
ある意味で前年の映画の悪役のひとりと似ていると言えるでしょう。ただ生きていたのに何かの切欠で悪役になってしまったと。
正しいと思った道を選ぶうちに気づけば世間の敵、社会の敵、世界の敵になってしまうという後天的な悪性の開花。なんだかシンパシーを覚えます。
典藻はしんちゃんの映画の悪役にはできれば「くだらなくておバカな動機」と「トンデモ技術や世界観」といった要素を求めますが、今回の様な造形もまた魅力的だとは思います。
「成功者」が正しいわけではなく、期待に応える為に努力を重ねようとも一歩間違えれば悪役として排斥される。無情さがたまりませんね。人間なんてそんなものです。
まあ、ふつうの人は悪の道を選ばずに踏みとどまる、悪に進むのはその素養があったからだと言われてしまえば返す言葉もありませんがね!
【考察】超常的な力の介入
さて、ここからは今回の映画に実はタイムパトロールやそれに準ずる存在の介入があったのではないかという考察を述べたいと思います。
まあ、与太話です。テキトーに読み飛ばして頂ければよいです。
都合上、「雲黒斎の野望」と「アッパレ! 戦国大合戦」の内容に少し触れますので、こちらのネタバレが嫌な方はここで読了としてください。あと少し「シン・ゴジラ」やその他作品にも触れます。
ナナは何故死ななければならなかったのか?
ナナの死因
まず、今回の映画のメインキャラであるスピノサウルスの幼体 ナナについです。
彼は野原一家やカスカベ防衛隊と交流を深め、家族・友達として受け入れられていきました。
が、最終盤で倒壊した建物からしんのすけとシロを庇う形で体力を使い果たし絶命しました。
死因について「小さな体でがんばりすぎた」というような言及がされましたが、これが真実であるとは限りません。
異常な誕生経緯のある生物ですから、がんばり云々をさて置きそもそも極めて短命であったとしてもおかしくありません。また、恐竜の生きた時代と大気の組成も違うだろう現代では生命を長く維持できなかったということもあるでしょう。
当然検死をしたわけでもありませんし、そもそも偶発的に生まれたイレギュラーな生命であるので既存の生物の枠組みで生死を語れるものかも不明です。ナナが何故死んだのかは不明なのです。
物語に求められた死別であったか
キャラクターの死因の真実は不明ですが、物語の都合ということを考えるのならどうでしょうか。即ちナナが作劇上で死ぬべき命であったかどうかです。
ナナは人類にとって脅威となり得る存在です。
小さな体でありながら尻尾の一振りで成人男性を吹き飛ばしたり、バブルとアンモナー伊藤が操縦する男のロマンたっぷりのロボットを圧倒する膂力を見せたり、人類にとって脅威的な存在であることは間違いありません。幼体の時点で(絶命するほどの出力を伴ったとはいえ)倒壊したビルを支える腕力があったというのも非常に恐ろしいものがあります。
友情を育んだ者が相手であっても、何かの切欠で野生が目覚めて襲い掛かるというのも劇中で描写されていました。成長の過程で野生や狩猟本能が強まっていくという事も無いとは言えません。
仮にビリーが無人島でナナを人間社会から隔離した上で共に暮らす道があったとして、ナナは泳ぐことができる恐竜です。成長したナナが野生のままにビリーを屠り、人の住まう土地に泳いで向かうということもあったかもしれません。
更に作中の描写でその知能の高さがわかります。その知能の高さ故に、いずれ自分の境遇をはっきり知った時にどのような振る舞いをするのかわかりません。
彼はヒトの都合と技術によって創られた命です。大雑把に言ってしまえばフランケンシュタインの怪物やミュウツーと同じ立ち位置にあります。そんな彼が人類との共存を選ぶのか、人類への逆襲を選ぶのか……。
現代人が生きた恐竜を見るのは初めてのことです。つまりは未知。そして未知というのは脅威なのです。
生きた恐竜には、これまでの研究で見つけることのできなかった特性があるかもしれません。暴論ではありますが、シン・ゴジラのように単為生殖をするようになる可能性だってあります。これは恐ろしいことですね。
人類と共存ができないのなら、人類が社会を築く世界では死ぬしかなかったのかもしれません。
現代人と恐竜が共存できないというのはドラえもんの映画でも触れられていたことです。
現代に生きられず死ぬしかないキャラクター性を持つナナ。彼を作中で生き残らせるには、どうしたらよかったのでしょうか。
(人類にとって)完全に安全であることが保証されるか、或いは何かしらの技術で本来ナナが属する種族が生きていた時代に送り届けることが必要だったと思います。
しかし後者はそれこそドラえもんとネタ被りになってしまいます。何かと粗を探して批判することが娯楽のひとつになってしまっている荒んだ現代インターネットの格好の餌食になってしまいます。
前者の条件を満たす物語の運びで生存エンドを迎えることはできたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。ナナはビリーと無人島で平穏に暮らすことも、新たな日々の中で春日部の家族や友達と再会することもなく、その未来は閉ざされました。
ナナとの別れを経てしんちゃんが一回り成長しました、という締めくくりなら物語上での死別の必要性もありましょう。死に意味があったと言えましょう。
しかしそうではありませんでした。
エンドロールでの静止画も含めて、ひと夏の出会いと別れを経て、また元の日常に皆が戻っていきましたというのが大まかなオチでした。
少年たちの成長材料でないのなら、何故ナナが死ぬ話になったのでしょうか。死ぬべきキャラクターとして生まれたからでしょうか。半分はそうかもしれません。しかし、もう半分は別の理由があるのではないかと考えます。
それは「ナナの存在はタイムパトロールが動く案件だったから」。つまり「戦国大合戦」で又兵衛が不自然な死に方をしたように、「ここで死ななければならない」という歴史の修正力のようなものが働いたからなのではないでしょうか。
ナナは本当にスピノサウルスだったのか?
歴史の修正力が働くに至るナナという存在は異質なものであったと仮説を立てます。
いえもちろん、恐竜が現代に生まれるという事自体が異状でありますが、それだけではなく。ナナ自体が生まれてはいけない命だったとのではないかと考えます。
バブル・オドロキ―のもとで作られたロボット恐竜たちは、しんちゃんたちの着ぐるみ姿ですら「仲間」として認識する程度の判別能力しか持ち合わせていませんでした。
とすると、終盤でナナの叫びにスピノサウルス(ロボ)が駆けつけたのも、「ナナがスピノサウルスであるから、スピノサウルスを模したロボが仲間の叫びに呼応した」とは断言できないのではないかと考えます。あくまで種の近い恐竜の幼体だったから、ロボが誤認した可能性もあるのではないでしょうか。
作中の端々でボーちゃん(とアンジェラ)による恐竜の解説がありましたが、その中で「姿の似ている別種の恐竜」を指して名前を列挙する場面が何度かありました。これはナナがスピノサウルスそのものではなく、「スピノサウルスに姿の似た別種の恐竜(の幼体)」であることの暗喩だったりしないでしょうか。
或いは、スピノサウルスであることは間違いなくとも、「異常なスピノサウルス個体」である可能性もあります。
誕生の経緯からして偶発的なものでありますし、幼体でありながら凄まじいパワーを発揮していたことも「異常」であるといえます。
ナナは少なくとも純粋なスピノサウルスではなく、歴史から見て存在自体が許されないものであったという可能性があると言いたいです。
まあ、ナナの正体がどうであれ、(繰り返しになりますが)恐竜という存在が現代に在ってはならない命であります。
バブル・オドロキ―という特異点
ハイパーイベントプロデューサーという肩書き
話は変わってバブル・オドロキ―の話です。
もし彼の蘇らせた恐竜がロボットであったとバレなかったなら。或いはナナを手にして実験体にすることで、「本物の恐竜」を蘇らせる方法が確立されたなら。作中のような大事に至らず、恐竜に関する彼のアンビリーバブルは成就していたでしょう。
そうなれば彼はまた次の期待を受けて、新たな目標を立てていたでしょう。
そうして同じことを繰り返していき、「アンビリーバブルを世界中に届ける」という理念が達成された後、彼は満足するでしょうか。
これまで人々からの期待というプレッシャーに応える為にアイデアを進化させ続けてきた彼は、きっと「世界」を超えたその先にアンビリーバブルを届けようとするのではないでしょうか。
それは例えば地球外であったり、或いは過去や未来であったり。
ナナが先述の様な許されざる命ではなかったとしても、しかしバブルの道具として活用されることがあれば、恐竜の創出は叶ったかもしれません。
そうなれば、ナナが存在していることによって、宇宙進出や時間移動に連なるアンビリーバブルな野望のルートが開いてしまいます。
ところで、バブルの肩書である「ハイパーイベントプロデューサー」ですが、「歴史トレンドクリエーター」と少し語感が似ていませんか? 似ていますね? 似ていることにしましょう。
つまり、「雲黒斎の野望」にて歴史改変を目論んでいたヒエール・ジョコマン本人やそれに類する時間犯罪を行う者たちに連なるルートのひとつとしてバブル・オドロキ―の成功があるのではないでしょうか。
ハイパーイベントプロデューサー=歴史トレンドクリエーターの祖であるという説です。
麺を宙に浮かせてみたり、恐竜を現代に蘇らせてみたりといったアイデアを具現化させ続けたアンビリーバブルなバブル・オドロキ―ですが、期待の過熱が進めば、いつか歴史への干渉を目標として掲げることもあり得ると思います。
そして、ナナが「なんかわかんないけどたまたま」生まれたように、不明な方法で過去や未来への干渉が叶う奇跡が起こるかもしれません。
なにもバブルがジョコマンに直接つながるものとは考えませんが、20XX年に歴史に干渉する技術が生まれることがタイムパトロールや歴史の修正力に目をつけられたのなら、その芽である恐竜事案を解決する為にナナが始末されたとしても不思議はありません。
「オドロキー家の資産」というカバーストーリー
エピローグにて、今作の騒動で被害を受けた春日部や渋谷の修復はすべてオドロキー家の資産によって賄われたと言われていました。
そのシーンの中で野原邸の表札の汚れまできれいに元通りになっていることにも言及されています。
この2つの情報には、やや違和感を覚えるものがあります。
まず、オドロキー家は恐竜プロジェクトの為に少なくとも酢乙女家からの出資を受けています。
もちろん、横のつながりというものであったり、酢乙女家側のビジネスプランであったり出資の理由はいくらでも考えられます。
しかし、見栄張りになっていて周囲の期待に狂っていたバブルが「崩壊した街を再建するほどの資金力」を持っていたのなら、誰にも頼らず「バブル・オドロキ―の力だけで成し遂げるというアンビリーバブル」を目指したのではないでしょうか。
冒頭のあいちゃんの出番というのは、物語の導入としての舞台装置であったと共に、エピローグにおけるオドロキー家の資産への言及に対する否定材料の提供であったのではないでしょうか。流石あいちゃん。かわいいだけではないのです。物語上重要な立ち位置だったのです。
次に、修復の技術が異常であるということです。
恐竜の精巧なロボットであったり、トンデモ兵器を開発できるほどの技術者や生産工場のコネクションがあるのなら、オドロキー家が市街の再建を担ったというのもまあ納得できます。
なにも、オドロキー家は費用を負担しただけで、直接コネクションの無いオーバーテクノロジーを頼ることもできたでしょうしね。
しかし、それにしてもあまりにきれいに元通りになっています。きれいすぎます。
現状復帰において汚れまで元通りというのは違和感があります。いえ新品にして弁償しろということではなく。「汚れを含めた元の状態」を完璧に把握したうえで再現までするというのは、おかしくないですか?
グリッドマンやプリキュアのような創作の上での表現であるといえばそれまでですが、そんなご都合主義が許されるなら、ナナは死なずに済んだのではと思うわけです。
ゲストキャラであるナナを死なせるシビアさがある一方で、レギュラーキャラたちは「元通り」に戻っていく。
これは何某かの超常的な力が働いているのではないでしょうか。先にも挙げた歴史の修正力のようなものの介入を疑います。オドロキー家の資産による修復というのはあくまでカバーストーリーなのではないかと考えます。
恐竜が人類にとって代わる未来の暗示
本当は怖いLOVEマシーン
劇中、アンモナー伊藤の開発したダジャレ恐竜たちが登場する場面がありました。
そのなかで、オルニトミムスを元にした「踊るニトミムス」たちがモーニング娘。の楽曲である「LOVEマシーン」を踊るというシーンがありました。
ステージ上で踊るニトミムスたちが踊る間、観客席ではペンライトを振る恐竜たちも描写されています。
このシーンは先述の通り、「枠」であり「ノルマ」であり、無理やりに入れたシーンなのではないかと思うほど異質なものでした。
同時に、「マサオくんが調子に乗る」というノルマを達成したシーンでもあり、やはりノルマ達成の為に無理やり入れられた脚本上の異物なのではないかとも思えます。
とはいえ、このシーンの間、典藻はずっと笑いを堪えていたほどツボに入るものでしたし、こうして考察をするまでは「変なシーンだったけどあってよかった」という感想を持っていました。
そうなんです。考察をするにあたり、印象が変わったのです。もしかしてこの「LOVEマシーン」の場面は重要かつ「意味が分かると怖い」ものだったのではないかと思うのです。
端的に言えば、「猿の惑星」的な恐怖感です。
或いは、SCP財団の定めるところのSK-クラス 支配シフトシナリオです。
ヒトではない生き物である恐竜……ですらないロボットの彼/彼女たちがヒトの文化を模倣して、ステージで踊り、客席でそれを楽しむ様。これはちょっとしたホラーですよ。
そして、「LOVEマシーン」という選曲。機械の恐竜が「愛について語る歌」で踊っているのです。性愛でなく恋愛という高度な知能を持つ生命の精神活動の歌で、恐竜であり機会である彼/彼女らが盛り上がっているのです。
しかも、当該シーンは主要人物たち以外のヒトがいなくなった伽藍洞の渋谷です。
疑似的に、人類がいなくなった後の世界で「次の種族」が社会や文明を謳歌する様が描かれているのです。
さらには、ご丁寧なことに楽曲の歌詞の一部が原典から変わり「恐竜の未来は」となっています。
これは恐竜(またはロボット)がヒトに代わり社会を築く未来を暗示するものだったのではないでしょうか。
スピノサウルス(ロボ)がバブルに反抗するシーンがあったり、先述のとおりナナが異常な生命であることから、ロボットにしろ恐竜にしろ、人類に牙を向き絶滅に導くという未来があったのかもしれません。
考察まとめ
・ナナ自体が人類と共存できない存在であり離別自体は仕方がない。しかし、安全の保障や時間移動など生存の道を避けてまで描かれた死別が物語の上で意味のあるものになっていない。
・バブルの計画がうまくいってしまった場合、将来的に更にとんでもない「何か」を引き起こすことが予想される。
・騒動の後始末が不自然にきれいすぎる。
・「LOVEマシーン」のシーンに隠れた不穏さが暗示する人類絶滅の未来。
これらのことから、ナナは歴史の修正力のような超常的な力の介入によって死なざるをえなかった。そして、その後に「元通り」に後始末が行われたのも超常的な力によるものであると考えます。
まさに! 暴論!
おわりに
なんのかんのと書きましたが、劇場に足を運んでよかった映画でした。大変に楽しめました。
典藻の好みが偏っていることもあり「クレヨンしんちゃんの映画で一番好きなものは?」と問われたときに選択肢に入るものではありません。しかし、「ひとに薦めるならどれ?」と聞かれればこの映画を挙げてもよいかなと思える作品です。
ひと夏の冒険、出会いと別れといったものが描かれていて、子供向けの映画の理想的な形のひとつになっていると思います。
子どもたちが頑張る。オトナたちも負けずに頑張る。悪役たちも頑張る。
皆がそれぞれの立場で、それぞれの想いに従って頑張っている姿を見せてくれる映画でした。
あいちゃんの出番も多かったですし、バブルはよい悪役でしたし、恐竜にワクワクしましたし、あいちゃんの出番は多かったですし、満足度の高い体験でした。
この記事を公開するころには、上映回数も減ってきてしまっているかもしれませんが、もし興味を持たれたなら是非観に行ってみてください。
そして、典藻の考察を一笑に付してください。
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