夏の暑さに融ける休日

その他






(1)
 午前中でありながら既に暑気の厳しい平日。開け放った車窓から流れ込む熱風とセミの声に季節を感じながら、わたしは自家用車を走らせていた。ここ数年はセミの声を聞いていなかった気がして、これほど暑くとも今年はセミが活動できる程度の気温ではあるのかと、噴き出す汗を拭いながら考える。
 
 帰ったらまずはシャワーを浴びようと、今日の仕事先に着く前から既に帰ることを考える程度にはやる気がない。身体を取り込む熱気に反比例するように仕事への熱意というものは萎えていく。それにしたって今日は一段とやる気が起きない。
 自分のことを一番わかっているのは自分などとは言うまいが、今日の自分がいつにもまして萎えていることの理由はわかっている。

 平日は普段であれば勤務日ではあるのだが、今日という日は本来なら振替休日として終日自宅で過ごす予定だったのだ。
 ここのところのわたしは働き過ぎている。
 いやもちろん、それは熱の入った目覚ましい活躍などではなく、惰性で目の前の仕事を片付けたり、或いは先送りにしてみたりというだけのことではある。そんな惰性での仕事といえど、休業日である土曜日曜祝祭日まで出勤し15連勤が見えてくれば、それ相応に疲労が蓄積するものではあるのだ。なにしろ月の半分を休日なく働くわけで、人間の心身はその環境で健全には生きていけないのではないかと思わずにはいられない。
 
 そんな風に疲労を誤魔化し惰性で働き、ようやく休んだ先週末。
 正直なところを言ってしまえば、半月働いて1日だけ休んだところで疲労は回復しない。それほど効率の良い生命ならば、きっともっと生きることが楽しいのではないかと夢想する。しかし夢見たところで現実は抜けきらない疲れを引きずり再び惰性と習慣で生きる屍のごとく、あるいは耐用年数を過ぎた電化製品のごとく、生活の為の戦いに赴くのである。

 やや遠回りをしたが、そういった連勤を見かねて……と言えば聞こえはよいが、昨今うるさいらしいコンプライアンスなるものを守るポーズの為に、ここ最近の休日出勤の振替として、今日という日は休日扱いになるはずだった。
 何故に文末が過去形になっているかと言えば、文章から読み取れる通りに、結局今日も仕事にでているからだ。

 せっかくの休日。あれをやろうか、これをしようか、或いは贅沢に1日中寝て過ごすのもよいなどと予定を立てていたが、そんなものに意味はなかった。
 1度抱いた夢が無惨に砕かれたのだ。今日という日に、わたしのやる気が湧きようもない事はわかってもらえるのではないだろうか。


 とはいえ、わたしは惰性で仕事をこなすプロフェッショナルでもある。不良サラリーマンといえど矜持もある。やる気はなくともやらねばならない。
 昨日の今日で納品が叶うと思っているらしい無茶な注文にも、方々に根回しをしてどうにか間に合わせ、最後に自身の休みを生贄にして対応するとも。
 何故なら、それがどんな無茶であれ、1度依頼を断れば、次の機会はもう無いのだから。わたしの仕事はそういうものだ。常に便利屋であることを求められる。同業他社との競争も勿論あるが、職種そのものへのある種の誤解もあるのではないか。
 こういったことを考えたところで、益体もない。やるしかないという現実は目前に立ちはだかり続けている。やらなければ後がないのだ。


 
(2)
 或いは、これは仕事ではなく小旅行と捉えることもできるのだろうか。
 午前中の案件を終え、再び車中の人となったわたしはハンドルを握りながらそんなことを考えていた。

 正午に約束をとりつけた相手先へと車を走らせる。
 自宅からみて南西40キロメートル超。南西20キロを告げるアンデットサーチャーにも負けない距離である。
 であればこそ、これは小旅行といえるのではないかと考えるのである。 

 実を言えば、40キロ先の目的地に行かなければならないと決まった時に、ひとつ業務外の目的が思い浮かんでいた。
 わたしのカツ丼嫌いを覆した非常においしいチェーン店があるのだが、どうも店舗数が少なく、滅多に立ち寄ることができない。しかし、この店舗のひとつが、今日の道程の途中にあるのだ。生憎、約束が正午の為、空腹を感じ始める時間帯に立ち寄ることは叶わないが、自身への労いとして帰路にて寄るのもよいだろうと楽しみにしていたのだ。

 しかし、そんな楽しみを迎える為には、まずその前に難敵を片付けなければならない。
 いささか表現が難しいが、いちばんニュアンスが近い言い回しをするのなら「年上の部下」と称すべき同僚のやらかしに対して、迷惑をかけてしまった相手方への謝罪と事実確認というのが今日一番の難敵だ。片道40キロという道程と現地での滞在時間が読めないことから、終日仕事の予定が入っていなかった今日という日がお誂え向きであってしまった。わたしの休日が無くなった主因はこの難敵の存在にある。
 難敵とは呼ぶが、相手方を知らないわけでもない。むしろ、事業所単位でなく、わたし個人という単位であれば以前に仕事で関わった際の経緯から、よくしてもらっている相手だ。謝罪というのは形式上のもので、主な目的は何があったかの確認になる。相手方にとっても貴重な昼休憩を費やしてもらうのだから、やるべきことはやらねばならない。


(3)
 戦いを終えて帰路につき、40キロをまた走る。
 その道すがら、ある意味今日の本命ともいえる遅めの昼食を摂る為に、例の店に立ち寄る。
 店舗が入っている商業施設の館内に立ち入ると、そこは別世界のような快適な温度と湿度。目的の店舗に歩き着く頃には体中を濡らしていた汗も徐々に引いていた。

 ようやくに、そして数年ぶりにわたしを虜にするカツ丼を食べる機会が巡ってきた。以前より少し値上がりしたいつものメニューを注文する。
 食事の時間としてはピークタイムから外れていたおかげで注文から提供まで待つこともなく、席も容易に確保できた。
 久しぶりの味は、記憶の中のそれと相違なく、どの店で食べても概ね同じ味を享受できるのがチェーン店のありがたいところだ。
 ゆっくりと味わって食べたいという気持ちに反し、その美味に食が進み、楽しみにしていた食事は思いのほか早く終わってしまった。やはり良い味だった。次にここに来れるのがいつになるかはわからないが、またいずれ食べたい。

 快適な館内に後ろ髪を引かれつつ、陽光降り注ぐ屋外へ。
 よく温められた車内に戻り、窓を開け多少の涼をとる。熱風であれ風が吹き抜けるのは気持ちのよいものだ。
 できることなら冷房をつけたいところだが、休日扱いの今日は社用車を出せず自家用車を使っている以上、燃料費を節約したいという気持ちが強い。暑いといっても自身の体温のほうが高いのだから、まあどうにかなるだろうと汗を拭いながら楽観する。

 それにしても暑い。
 暑さを表現する際に体が溶けるようだと言うことがあるが、休日というのもまた暑さに弱いらしい。現にこうしてわたしの休日は融解している。
 いや、と思い返す。冬季であっても休日が無くなることはある。となると、休日は暑さに弱いのではなく、融点が非常に低いということか。

 春夏秋冬、人にとっての適温であろうと辛い暑さ寒さであろうと、休日と言うものは融けるものなのかもしれない。なるほどこれだけ繊細なものならば、その結晶である連休というものは希少なわけか。
 帰路を運転しながら、そんな知見を得た「休日」のこと。

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