人助けという若い愚かさ

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 いまいち頭の足りないわたしですが、若い頃、というか子供の頃は輪をかけて愚かでした。
 どれぐらい愚かかと言えば、ホームルームで学校の先生が「道端で座り込んでいたりしている人は、具合が悪くて困っているかもしれないから、なにか助けられることがないか声をかけましょう(意訳)」と言っていたのを真に受けて、しばらくの間それを実行していたぐらいに愚かでした。


 道の端で段に腰かけているご老人に「大丈夫ですか?」と声をかけて「ちょっと休めば大丈夫よ。ありがとうねぇ」と返ってきたから、感謝された=やはり声掛けはよいことなのだと誤学習しました。
 その後も同様の事が何度か続いたあと、声掛けの際に怒鳴られて「ごめんなさい」と謝りながら立ち去ったあたりで、もしかしたら間違っているのかもしれないと気が付きました。


 高校生の頃、道に迷ったお金持ちのご婦人の道案内をしたら、会話の流れから最終的に、当時の家(団地)のことを狭くてまともな暮らしじゃないと馬鹿にされて悔しい思いをしたものです。いえ、おそらく無自覚な発言であって悪意はなかったものと思いますが。
 
 同じく高校生の頃、弟と買い物に出ていた際のこと。
 どうやら母親とはぐれたらしく泣いていた小さな子に「一緒にお母さんを探そう」と手を差し伸べたところで、弟から「気持ち悪い」と評されました。
 いや、「気持ち悪い」というのは、案外軽く扱われていますが、言われると傷つくものです。学校で女子たちに言われる「キモい」とはまた別のショックです。


 高校の頃といえば、大したことがあったわけでもないのに学校が嫌になっていた時期です(別記事参照)。
 たしかに心が荒む一方で、人生の教科書(こちらも別記事参照)を参考にして、「よき人」になろうとしていた時期でもあります。助けたご婦人から侮られようと、血を分けた弟から蔑まれようと、教科書に倣って善行を重ねれば、その先でたどり着けると思っていたのです。愚かですね。


 所詮は「よき人」の真似事でしかなく。
 それで足りない何かが補えるわけでもなく。
 「よき人」を目指すという打算で行動を起こしている時点で、真に善を為せるわけもなく。


 自省を経て、誰しもを助ける人には、なれない/ならないのだと確認しました。


 少し前に耳にした話題によれば、具合の悪い人を助けようとして逮捕されるという事があったそうです。現実において、そのような不条理がまかり通るのです。文字通りに「人生をかけて」人助けをするのなら、その対象は道端の見知らぬ誰かではなく、妻にしたいです。取捨選択の話です。見知らぬ誰かより妻が大事に決まっています。
 対象を妻ひとりに限らないにしても、現実的に可能なのは、見知った相手にほんの少しだけ助力するという程度のことです。


 少し職場のことを思い出してみれば、体調とトレードして手を尽くしたという過程や、それにより発生したよい結果というものを勘定にいれず、よい歳をしてヒソヒソコソコソする人間もいるわけです。骨折り損のなんとやら。
 どのような場面でも、安易に「人助け」などするものではありません。


 職業人としてのわたしではなく、「素」のわたしが何かをすることに「ありがとう」と言って下さる方は、実は大変に稀少な存在なのです。
 職業的に行う福祉という名の「人助け」は、社会的に認められたものですから、困っているという状況と助けたいという気持ちが合致します。なので、仕事の結果として得られる感謝は、その存在が不思議なものではありません。

 しかし、仕事としてではなく、わたし自身が考えて起こした「人助け」行動に感謝が示されるのは、稀なことです。助けたはずのご婦人に馬鹿にされ、助けようとする姿を弟に気持ち悪がられるわたしですから。
 
 妻を含めて「ありがとう」と言って下さる方々との関係は大事にしていきたいです。そういう人を助ける為にこそ、リソースは使うべきなのだと思います。
 この取捨選択は、若い愚かさを悔いた闇堕ちではなく、人間の中で生きる為の最適化と呼ぶべきものです。


 まあ、「そんな考え方は不道徳だ」という意見もございましょう。「感謝」という見返りすら求めない人助けは、わたしには無理だったということで、ご納得いただけますと幸いです。

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