ケーキを切れないわたし

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 先日チーズケーキの記事を書いたところから、「ケーキの切れない非行少年たち」を連想しました。

 読めばきっと傷ついて、気分が沈むとわかっているので、件の本を読んだことはありません。「お前はヒトとして扱うには不足である」と、自分自身に対して思っているだけでも落ち込むのに、他人から示されるとつらいものです。知能が劣っているなどと言われて、嬉しいわけもありません。


 わたしにはよくわかりませんが、「ふつう」の人々はケーキを3等分できるということなのでしょうか。


 3分割ならわかります。それならば、わたしにだって出来ます。
 しかし、等分です。ナイフペンだけわたされて、ホールケーキ円形を目測で等分するという精密作業は、わたしには到底できません。定規を使わずにペンだけでまっすぐな線を引くということもできませんのに。

典藻キロクの3等分ケーキ

 およそのことであれば、Y字に切ればよいのだとは理解しています。しかし、これでは3等分ではなく、3分割です。
 Y字が「正解」ではあると思いますので、たまたま真っ直ぐ、適切な角度で線を引ければ、偶然に等分することはできるかもしれません。ならば、わたしはその偶然が起きるぐらいの確率においては「ふつう」である瞬間もあるということなのでしょう。それがどのぐらいの確率なのかはわかりません。偶然に頼るほかなく、日常的に「ふつう」であることが維持できないのなら、どちらにせよそれは「ふつう」では在り得ないでしょう。

 そんな風ですから、職場で人事の方から「がんばっていない」「人間社会で生きるなら、人間にあわせた生き方をしないといけないのはわかりますよ?」と言われてしまうわけです。
 まるで、わたしが何もがんばらず、他人にあわせることもしていないかのような言い草です。ここで悲しいことを申し上げるのなら、がんばって合わせて、現状です。とても残念ですね。ヒトモドキはヒトには成れないのです。


 「ふつう」の人はケーキを3等分できるのでしょうか。
 どこをどう切れば、分割ではなく等分ができるのかが視えている世界というのは、わたしには想像もつきません。「直死の魔眼」を通したかのように、切ろうと思った物体に線が走って視えるのでしょうか。そんなことはないでしょう。ないですよね?
 どうして、等分できるのが当然で、さも簡単なことのように扱われるのか。

 
 あるいは、意地の悪いひっかけクイズのようなもので、わたしのように「等分」という言葉ひとつにこだわること自体が問題なのでしょうか。そうなのだとしても、わたしにとって「分割」と「等分」は違います。「時」と「場合」が違うように、「する」と「できる」が違うように。
 

 まあ、ケーキだったり等分だったりにこだわることもありません。いずれにせよ、現に「努力が足りない。人間社会に向いていない」と言われてしまうわけですから。
 その場で喉まで出かかった「人間として生きられないのなら社会に出るなというのか」「だったら今すぐこの場で殺してくれよ」が言葉として出力されなかっただけでも、ヒトモドキなりの擬態の成果だと思うですけどね。


 人生は舞台、人はみな役者と申します。
 妻以外のヒトと関わる場合には、常に人間役を演じる俳優であれと、そう言われていることはわかります。それを試みて、演技の出来が悪いから現状なのだと、わかってもらえないのが悲しいところです。なにもがんばっていないように見えるそうです。
 世の中、成果物の良し悪しで量られるのが常でしょうから、まあ、わたしのそれはがんばっている「つもり」でしかなく、実際としてはがんばっていないということなのでしょう。


 わたしだって、ケーキを等分できるのが当たり前の世界に生きてみたかったですよ。

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