冒頭文
おはようございます。社会人にも夏休みがほしい典藻キロクです。
3連休ぐらいでよいから欲しい。
そんな社会人になる前、まだ学校に通っていたころ。
死生観やら何やら、益体も無い事をごちゃごちゃと考えていた思春期のころ。
いや、ごちゃごちゃと薬にならない毒のような事を考えているのは今も変わりませんが、そうではなく。
若かりし頃の典藻は人から見れば小さなことで悩みがちでした。
その中でも、「自分」というものが無いということは大きな悩みのひとつでした。
「自分は誰か」という命題ではなく、ああしたいこうしたいという主体性がないということでもなく、自分から発せられるものは受け売り・借り物ばかりで何一つオリジナルが無いということについて悩んでいました。
この頃の典藻は身の程を知らずに将来ライトノベル作家になりたいなどと夢想していました。
面白いかどうかはさておき、いくつか作品と呼べるものを形にしていました。
(書き始めたものを物語として書き終えているだけ、今の典藻よりも創作への姿勢は真摯だったとも言えます。若さですね)
そんな若き日の典藻にとっての道しるべになったセリフがあります。
「人間の発想なんて今まで見聞きしたものから生まれるわけだからな。世の中の全てがパクりみたいなものだ」
このセリフで目からウロコが落ち、価値観が大きく変わりました。それがよいことだったか悪いことだったかはわかりませんが。
本題
最近知ったのですが、創作者の間で用いられる「無産」という蔑称があるらしいですね。
自らは創作をせず、消費をするだけの人を称する言葉だそうです。
であれば、今も昔も典藻はこれに当てはまってしまいます。
当時の典藻は先述の通り、出来はどうあれライトノベルらしきものを書き上げていました。
なので、生み出したものはゼロではありません。
しかし、オリジナルを謳いながら、その実、中身は「どこかで見たことのあるもの」の継ぎはぎでした。オリジナルなんてどこにもない不出来なパッチワーク。
オリジナルが生み出せないことに大いに悩んでおりました。
自分が無い。
誇ることのできる特技や秀でたものが何一つない。(これに関しては今も変わりません)
受け売りや借り物の言葉で飾っているだけで、自分の中には何も無い。
我思う。しかして我無し。
そんな日々の転換点になったのが先のセリフです。
典藻が度々「人生の教科書」やら「聖典」やらと呼んでいる作品「D.C.II」での一幕。
原作ゲームにおいてはヒロインのひとりである雪村杏の個別ルート、アニメ版では2期第2話「雪の密室」にて描かれるシーンです。
カレーのレシピを褒められるも、「自分のレシピは以前にどこかで見たもののアレンジであり完全オリジナルではない(意訳)」と謙遜する雪村杏に対して、主人公の義之くんがフォローしつつ、友人の杉並に話を振ります。
そして件のセリフ。
「人間の発想なんて今まで見聞きしたものから生まれるわけだからな。世の中の全てがパクりみたいなものだ」
作品自体がお気に入りだったことや、この一連の会話に関わる杏・義之くん・杉並が好ましいキャラクターであったこともあり、この言葉がスッと受け入れられました。
D.C.IIの名セリフ・名場面は? と問われてこのシーンを挙げる人はきっと少ないと思いますが、わたしにとっては十数年経った今でも記憶に残る大事な思い出です。
人間の発想は見聞きしたもの=それまでに経験したものから生まれる。字義通りの「完全な」オリジナルは存在しない。
言われてみれば当然のことなのですが、このセリフを聞いて初めて気が付いたことでした。
要は、見聞きするもの触れるものを咀嚼して、組み合わせ掛け合わせ、自分なりの形で出力する。この「自分なり」が自分のオリジナルであるということでしょう。
このセリフに限らず、この手の作品に触れることで視野の広がる経験を重ねたので、わたしはギャルゲ・エロゲを「人生の教科書」と称しているのです。
おわりに
ということで、わたしの価値観を大きく変えてくれたセリフについてでした。
上記のセリフの他にも、時期を同じくして別作品にて「偽物が本物に敵わない、なんて道理はない」という言葉に触れまして、こちらにも非常に勇気づけられました。
所詮どこかの誰かの偽物、劣化コピー、縮小再生産でしかないわたしにも「偽物」なりの矜持を持たせてくれました。
これらに触れた数年後に(よい歳をして)特撮ヒーローへの憧れを募らせることになるのですが、その中でも仮面ライダーディケイドやウルトラマンオーブといった別のライダーやウルトラマンの力をお借りして戦う方々に強く憧れるようになります。
借り物の力を用いて変幻自在に自分なりに活用しつつ、地力も十分にあるというわたしの理想とする在り方です。
借り物を用いることを忌避しないようになって早十数年。
このブログの中でもあちらこちらで誰かのセリフを引用してみたり、はたまたもじってジョークのように用いてみたりしています。
或いは、言葉の表面上の意味だけを都合よく解釈して、自身を鼓舞するのに使うこともあります。
言葉の力をお借りしてどうにか危うい精神を保ち続けている十数年です。
今日に至って未だわたしはオリジナルの何かを生み出すことができていません。先に触れた「無産」を脱することができていません。
わたし自身を指して「意味なし価値なし能無し名無し(略)」と詩を読むぐらいには無価値であることに変わりはないと思っています。
とはいえ、価値はなくとも意味はあるかもしれないというのが近況です。あくまで、かもしれない程度ではありますが。
どこかの誰かの不出来な偽物でしかないわたしではありますが、それでも誰かの糧になれるのなら、きっとわたしの居場所はそこにあるのだと思う今日この頃です。
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