「ありがとう」で腹は膨れない

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 おはようございます。仕事疲れの典藻のりもキロクです。

 インターネット上で「某百貨店の管理職として17時間労働+5時間通勤の生活を3年間続けていた人」がいると聞き及びました。5時間通勤と言うと、自宅⇔職場の移動手段が徒歩かなにかなのでしょうか。詳細が非常に気になりますが、いくらでも身分を詐称できるインターネット上での発言なので、真偽のほどは定かではありません。

 それそのものが本題ではなく、上記の話題を耳にして(目にして?)、典藻が「典藻キロク」を名乗り始める直前頃までの勤務状況を思い出したというところから、今回のお話をはじめたいと思います。
 さすがに17時間労働5時間通勤=自由時間2時間というような生活はしていませんでしたが、忙しいときで15時間労働+1時間休憩+2時間通勤ということはありました。日付が変わってから退勤し、家で寝たら翌朝起きられないと思いシャワーを浴びて職場へトンボ帰りし会社の駐車場で夜を明かしたりしていました。帰宅の気力がない時は退勤後に車中泊をしたりしていました。冬場に車中泊したときは、県の条例によるアイドリングストップを馬鹿マジメに守ったために凍えて体が動かせなくなるという危機を体験しました。死んだように眠って、そのまま死ぬところでした。危ない。
 当時は妻(入籍前なので正確には妻ではありませんでしたが)も多忙でしたので、家事の分担の多くを典藻が受け持っておりました。家事と言っても掃除洗濯食器洗いやゴミ出し買い出し程度のことですので、毎日コツコツ片付けたり、週末にまとめるものはまとめたりで何とかなっていました。
 仕事に関する拘束時間が18時間でもそこそこ気持ちの落ち込む生活でしたので、冒頭に触れました拘束22時間の方は超人的であると感じます。

 まだ記事タイトルの話題に至らない、と? そうですね。まあもう少々お待ちください。ここから触れていきますので。

 気分が落ち込もうが、首や腰や頭が痛くなろうが、職場に近づくことで言いようのない気分的な重力を感じようと、常に心が何かしらの怒りに猛っている異常を自覚しようが、金銭面で頼れるのが基本的に自分自身しかいない以上、働かなければ生活できないたたかわなければいきのこれない。体が動く内は働かなければなりません。なので、やや精神を蝕まれていることをわかりつつも仕事は続けていました。(その後結局転職していますが)
 別の記事で書きましたが、職業そのものは嫌いではありませんし、それほど不満もありません。世にある様々な仕事のうちでもおそらく上位に入るだろう「『ありがとう』をよく言われる」業種であるのが、精神衛生の保持の一助になっていたものと思います。

 しかし、仕事をしていると、ふと思うことがあります。「ありがとう」では腹は膨れない。
 もちろん、感謝の言葉を向けられれば(たとえそれが形式的で気持ちのこもらないものであったとしても)、悪い気はしません。時間やお金や体力を消費した甲斐があったと思わないではないです。

 ただ、感謝を述べられるだけでは、現代社会では生きられません。感謝の気持ちで飢えや渇きを癒せるでしょうか。感謝の気持ちで家賃や水道光熱費を支払うことができるでしょうか。感謝の気持ちで税金を納めることができるでしょうか。
 そうですね。できませんね。
 そういった意味で「ありがとう」は、ゼロ円のスマイルと同様に無価値プライスレスの側面も持っています。
 
「ひとから感謝されるなんてよい仕事ね」
「他の職よりお給料が少ないとしても、感謝されれば頑張れる」
 そんな言葉を向けられたこともあったような気がします。部分的には真理です。
 実際のところ、素晴らしいですよ。感謝されるということは。
 妙に力が湧いてくるのを感じますし、多少窮まっていても、言葉ひとつで変なスイッチが入って気分の異常な高揚とともに捨て鉢気味に自身を切り売りするような働き方だってしてしまいます。

「お金のために働いているわけじゃない。感謝されればそれで十分」だなんて綺麗ごとを言えたら、よいなとも思います。
 憧れの仮面ライダーは「でも、だからこそ現実にしたいじゃない。本当は綺麗事がいいんだもん」と言いました。まったくその通り、おっしゃる通りだわと思いますので、なるべくそのように生きてはおりますが、現実には先立つものが常に必要なわけです。
 〇〇手当3万円/月がついているから、定額働かせ放題だった前の職場では、「ありがとう」をいくらもらおうと、いつか心身が限界を迎えていたと思います。休日だろうとn連勤だろうと「時間外」の対象にならず特に手当のない今の職場も少々つらいところがあります。残業代がでるだけ前よりマシですが、それでも残業は月〇〇時間までを厳守する必要があるので、それを超える部分はサービス残業サービス出勤で「出勤はしていないけど働いている」状態にしろという無言有言の圧力を感じます。

 それでも、仕事の先にお客さんという生きた人間がいる以上、その幸福や未来の為に尽力せよと、典藻の微量の道徳心が幅をきかせます。お金にならない仕事だろうが、なんなら仕事外の頼み事だろうが、必要ならやるしかありません。やった分だけ自分が損するのがわかっていても、腹を括るしかありません。
 典藻の職に限らず、同業界の他職種も似たような働き方をしています。
 かつて我々の仕事を「いらない仕事」と断じたあの方は、きっとこういった現場の事情を知りもしません。知った気になっているから、知ろうという動きすらとらないでしょう。
 

 失礼。また特定の人物に対する恨み言が漏れてしまいました。
 こんな風に「ありがとう」と真反対の感情を向けられる代わりに他の職種を見下して、昇給もボーナスもある程度保証されている仕事と、わたしバカでも出来ると見下されて「ありがとう」でモチベーションを無理やり保って続ける仕事。どちらが幸せなのでしょうか。


 人は感謝の気持ちを受けるだけに生きるにあらず。感謝の気持ちをもらうだけでは生きられない。感謝の気持ちをもらうことすらないのなら生きている意味がない。
 

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