贈り物のジレンマ

その他





冒頭文

 おはようございます。贈答する者される者、典藻のりもキロクです。
 いえ、特に深い意味を持たせず、軽い気持ちでもじってしまいました。先日自宅カラオケの際に妻がサンホラの曲を歌っていましたもので。


 それはそれとして。
 ジレンマなどと、たいそうなタイトルをつけていますが……いえ、「ウルトラマンタロウ」に登場する怪獣の話ではなく。
 板挟みになって困ってしまうという意味合いの「ジレンマ」です。要するに「贈り物はもらうのも贈るのも悩む」という典藻の面倒くさい感情についての話です。 

 以前に結婚祝いとして取引先の方から頂いた品物を、ようやく使う踏ん切りがつきまして、「贈り物は嬉しいからこそ死蔵してしまう」という悪癖を再自認するにいたりました。
 ↑のペアタンブラーは頂いてからおよそ2年、箱にしまったまま戸棚の奥に安置されていました。あわせて頂いた夫婦箸は未だに冷暗所にて保管されています。
 そんな悪癖と、それに関連するお話をば。

もらう側として

 当ブログをお読み下さっている方々には周知のことと思いますが、典藻は極めて即物的な俗物です。故に、欲しい物はいくつらでもありますし、贈り物をもらえるのはとても嬉しいです。
 もらって嬉しい贈り物といえば、なんでしょうか。取り繕わずに言ってしまえば、現金をもらえるのが一番嬉しいです。できるだけ金額が大きいのがよいですね。

 しかし、ええ。如何に俗物といえど、倫理観というものは持ち合わせておりまして、現金をもらうというのはつまり労働の対価であるべきと心得ております。
 ですので、仮に「キミに5000兆円あげるよ」なんて急に言われても、きっと固辞すると思います。5000兆円分の労働なんて出来る気がしませんからね。

 となれば、金銭ではなく、何かしらの現品をもらえるのが「贈り物をもらう」という行為に妥当であると考えます。繰り返しにはなりますが、なにぶん欲しい物がいくらでもある身ですので、なにかもらえるのなら、それはとても嬉しいことです。
 ですが、嬉しさを感じる一方で、いくつもある欲しい物のうちのひとつが手に入るというのは、膨大なリストの1行が埋まるだけであって、どことなく作業感のある「嬉しさ」になってしまいます。きっとお礼の言葉も血の通わないものになりましょう。ただでさえ、「怖い」「冷たい」と評判の典藻ですので、贈り物に込められた想念に釣り合うだけの言葉は紡げないかと。

 加えて、典藻はモノへの愛着が異常であると自覚しております。
 ただでさえモノへ情念を抱くのに、誰かからもらった物ともなれば、傷つけてはいけない、大事にしないといけないと死蔵してしまいます。現に、冒頭にふれたとおりに2年を超えてようやく使用の踏ん切りをつけるくらいには「誰かから贈り物をもらう」ということを特別なことと思っています。
 そして、1度使い始めれば擦り切れるまで使い続けます。小学生の頃に母からもらった財布を約20年使い続けていましたからね。見かねた妻がその年の誕生日プレゼントに財布を贈ってくれるまで、使っていました。まあ、今はその妻からもらった財布が暇も与えられずに酷使されているわけですが。

 妻は典藻のこれらの悪癖をよく知っているので、なにかをくれる時は大抵が食品です。食べてしまえば無くなるもの。死蔵することなく、損耗が激しくなるほど使うことのないものです。さすがよくわかっている。ただ、たまに形の残るものをもらうこともあります。こういった時は、せっかくもらったものを使わないのも失礼かと考えて、なるべく死蔵しないよう心がけております。
 夫婦間においては、数年前にもらった仮面ライダーの玩具(食玩)あたりを「これ、■■さん(妻)にもらったやつ!」「〇〇の時に××で買ってくれたやつ!」と自慢? すると「そうだっけ?」「そんなことあったっけ?」と返される程度には贈る⇔贈られる側に温度差があります。

 「もらって嬉しいもの」を死蔵する一方で「もらって困るもの」も捨てるわけにもいかずに持て余してしまうこともあります。
 高校の頃、後輩からホワイトデーの贈り物としてもらったミッキーマウスの小さなぬいぐるみは、まさに持て余しております。わたし、ディズニーのコンテンツとはあまり相性がよくないので。ですが、お礼の品としてもらった物です。それそのものについて可愛さなどを感じずとも、もらった経緯から大切にせざるをえません。これもやはり死蔵品。


 返礼の手段を考えるというのも、とても難しい。ヒトの気持ちがわからないので、どうお礼をすれば感謝の念を伝えられるのかがわからないのです。
 


 まとめるのなら、贈り物をもらうにあたり、相手の期待する反応(普段使いすることや大仰に喜んで見せること)を返せなかったり、しまい込んでしまってモノの活躍/作られた意味を奪ってしまうということの罪悪感から、贈られる側に立つにも色々考えてしまうということです。

贈る側として

 立場を変えて、贈る側としても悩むことが多々あります。

 第一に、典藻にはセンスがありません。どういった場面でどういった贈り物が適切なのか、あるいはそもそも典藻なんぞから何かを贈るという行為自体が失礼にあたらないかと逡巡します。
 しかし、考えたところで答えはでないので、何かしらの行動を起こします。仮面ライダーに曰く、「男の仕事の8割は決断、残りの2割はおまけみたいなもの」なので。
 相手は、他人が嫌いな典藻が何かを贈りたくなるぐらいの人格者ですから、嬉しくない贈り物だったとしても喜んで下さいます。なので、いつまで経っても、本当に適切だったか否かがわからないというのが困りものです。いっそ「こんなもの貰っても困る」とハッキリ言ってくれる方がいたほうが、成長につながるものと思います。


 次に、前項にあるように贈る⇔贈られる側の温度差が生じることにも悩みます。
 典藻は、時間にしても金銭にしても、贈り物を用意する為に自身のリソースを使用する以上は、贈った物を大事にしてほしいと考えます。とはいえ、典藻のモノへの執着の度合いが異常なのはわかっているので、あくまで適度に大切にしてほしいです。……これが「重い」こともまた自覚しています。
 創作物において見かけることのある「これを私だと思って大事にして」というのを地でいってしまうのが典藻です。本当に気持ちの悪いことですね。ええ、言われずともわかっていますので、皆まで言わないでください。
 気持ち悪さの自覚があるので、その湿っぽさや粘っこさを押し付ける形になってしまう贈り物は迷惑行為なのでないかと悩みます。


 3つ目に、自分の下心が介在してしまうことの汚らわしさに悩みます。
 贈り物を大事にしてほしいという欲望も相当に醜いものではありますが、それ以上に贈ったものを喜んでほしい、お礼の言葉がほしいという下心を持ってしまうことが、我ながらにあまりに醜い。純粋に相手を想っての行為でなく、自身の欲を満たす為の投資としての側面が生まれてしまうのがあまりに汚らわしいです。


 総じて、何を贈ってよいのかわからないし、贈ること自体が迷惑でないかと悩むというところに帰結します。

カルチャーショック

 そんな具合に贈られる側でも贈る側でも、あれやこれやと悩んでしまう典藻ですが、その悩みに一石を投じる情報を以前に得ました。

 あれは数年前のこと。なにかで読んだか聞いたかした話で、ソースも無く非常にあいまいな記憶なのですが、声優の方がインタビューか何かで「もらって嬉しいプレゼント」について「お米券」と答えていたのが衝撃でした。
 お米券……。お米券ですよ。ある程度用途が限られるとはいえ、店舗によってはお米以外の買い物にも使える商品券です。ほぼ現金のようなものじゃあないですか。当然のことながら、贈られて形の残る物でもありませんし、贈る相手に似合う/役立つ物を選ぶという過程もない、あまりに風情のないものです。それを、ある種イメージ商売の職に就く方が公的に発信するのかと驚きでした。

 しかし、よくよく考えてみれば、典藻も「もらって嬉しいプレゼント」は究極的には現金です。家賃や水道光熱費の支払いから、食品や生活消耗品、趣味の品まで自由に使える最高のプレゼントです。ただし、そこに「■■が自分の為に選んでくれた品物」という付加価値は無くなります。ですが、きっと贈り物はそのぐらいがちょうどよいのでしょう。味も素っ気も色気も風情も浪漫も建前もない生々しさこそ、もっとも喜ばれる贈り物なのでしょう。品物そのものや、それを選ぶ過程には、さしたる意味はなく、贈った/贈られたという事実と気持ちさえあれば、双方満足するのが「普通」なのでしょう。わかっていますとも。典藻のように過度に物質に執着するのが異常なのは重々承知しておりますので。

 まさにカルチャーショック。
 相手を想って選ぶという時間も、贈った物を相手に大事にしてほしいという願望もなく、淡々と粛々と現金のようなものを贈る/贈られるという文化が存在しているとは。

多様性を許容せよ

 ハロルド・ヒューイックは言いました。「多様性を許容せよ」と。
 この世には様々な価値観があってよいものと思います。
 なので、典藻のように贈り物ひとつにグジュグジュ悩む価値観があってもよいし、建前も臆面もなく現金に近似のものを贈り物として要望する価値観があってもよいはずです。

 それぞれに立場や価値観が違うのですから、典藻の家庭内でさえ贈る⇔贈られる側に温度差が生じるように、多寡はあれど必ず齟齬が生まれるものでしょう。
 その「贈り物」に込めた想念情念妄念が相手にそのまま伝導するものでもありますまい。ニュースで見聞きしましたが、ここ数か月で起きた刃傷沙汰の中には贈る⇔贈られる側の認識の差が一因だったものもありましたしね。
 

 幸いにして気持ちの悪い想念が伝わらない可能性もありますが、他方で想念云々を抜きにしても、そもそも典藻自身が嫌われ者ということを思えば「うわ、あいつから何かもらっちゃったよ。気持ち悪い」と受け取られることは十分に予想されます。
 価値観が多様であるのなら、わたし自身の「現金は贈り物として適当でない」という認識は、それこそ「適当でない」と判断します。使えば無くなり形も残らない現金やそれに近似するものこそ、相手への不快感を最低限に抑えつつ、ほぼ間違いなく役に立つ贈り物として「適当である」ものという論理的帰結。形が残らない以上、「贈り物を大事にしてほしい」という我欲さえも介在の余地がないので完璧です。
 自他の価値観が違うという前提に立っての判断。これこそ多様性の許容。強要でなく許容であることが肝要です。きょうようときょよう、1文字違いで大違いです。わたしの価値観を押し付けるのではなく、他者の価値観に沿うという形です。

おわりに

 以上、贈り物についての話でした。

 贈られた品物を死蔵してしまうが故に持て余し、もらって嬉しいはずなのに困ってしまうというジレンマ。
 贈る側であるのなら、現金等が最適。贈られる側であるのなら、現金は不適という矛盾。
 贈られれば嬉しいけれど、その嬉しさを返せないということの情けなさ。

 仕事や私事で「ちゃんとした」贈答をする方々は本当にすごいと思います。とても真似できない異次元の芸当です。贈答をこなすというのは、対人コミュニケーションの粋でしょう。

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