マキシマリストという言葉があるらしい
物品への愛着・執着からモノを捨てられないことと、昔からの蒐集癖のために、わたしは持ち物が非常に多いです。
本、人形、カード、その他の玩具や資料、仕事道具など……。自室も物置部屋も雑多に物が置かれ、積み上げられています。
最低限の持ち物だけで暮らすミニマリストの真逆をいっているので、ミニマムの対であるマキシマムから「マキシマリストとでも名付けようかしら」と思っていたのですが、この「マキシマリスト」という言葉自体は既存のもののようです。
マキシマリストとは、好きな物やお気に入りの物に囲まれて精神が充足した生活を送る人のことを指す言葉だそうですね。
そういった意味であるのなら、わたしがマキシマリストか否かについては疑問があります。
たしかに好きな物やお気に入りの物に囲まれてはいます。しかし、精神が充足しているかというと、なんとも。
少なくとも一瞥した際に取り入れる情報量が多く気が散ることは間違いありませんし、「片付けないといけないのに。使わないものは捨てないといけないのに」という気持ちに体がついていかないもどかしさも感じています。この状態で心が満たされているとは、いまいち言い難いでしょう。
自室に物が多い為にベッドや和布団を置けず、ここ数年ずっと畳で寝ているというのも、心身の休息という観点からすると、あまりよくないように思います。
マキシマリストという上等なものとは、やはり遠いように思います。
物が増えていく
買い物でストレスを解消している
物を捨てられないことと蒐集癖が、持ち物の多さに繋がっていると述べていますが、もうひとつ自覚している原因があります。
どうも、わたしは買い物依存症のけがあります。
蒐集癖から「これが欲しい!」という感情自体があることに間違いはないのですが、その欲しいものを愛でるでもなく、買ったこと自体に満足してしまいます。せっかく買ってきても、読んだり飾ったり遊んだりする機会はあまりありません。それどころか、買ったパッケージのままでしまいこんでしまうものも少なくありません。
店頭で見初めて買うものですらそうなのですから、手元に届くまでに時間のかかるネット通販での予約購入などは、文字通りに「忘れた頃に」届いて、そのままにしてしまうこともあります。
買い物依存症かと考えてはいますが、浪費癖と言い換えてもよいでしょう。
欲しいものを買うときの心理は「こんなに素敵なものを買えるだけのお金を手に入れられるのだから、それだけ労働をがんばったということだ」となっています。労働のストレスを、その労働に意味があるのだと実感することで解消しようとしているように捉えています。
子どものころは買ってもらえなかったような玩具を、今は自分の力で買うことができるのだと。手に入らなかったものを手に入れられるほどにがんばっているのだと、外付けのモチベーションを以て日々の労働に勤しんでます。
(なので、何かの物品が手に入るわけでもなく、何の見返りもない出費というのは、苦痛であり、憤りを感じるものであり、大きなストレスを感じるものになります)
あわせて、趣味の品の多くが「期間限定」でしか買えないものたちです。
発売当日の開店時間に売り場に行かなければ買えないような、実質的なごく短期間の限定品もあります。受注期間を逃せば正規の値段で買うことのできなくなるものも多いです。あるいは、1年という比較的長い期間ではあっても、販促番組が終われば基本的に再販の無いものたちです。これらが「今買わなければ、2度と手に入らなくなる」というプレッシャーを与えてきます。
趣味の品を買うことがストレス解消であるはずなのに、次から次へと「期間限定」の品が現れて、追いかけることにストレスを感じて疲弊している面もあります。
かといって、買えなければ(買わなければ)、それはそれでやはりストレッサーになります。なかなかに病んでいますね。
同じ買い物でも、形の残るものを選択してしまう
物を増やさずに買い物でストレスを発散する方法として、ちょっと贅沢な飲食をするというのを試みたこともありました。
しかし、あまりうまくはいきませんでした。
確かに、買った瞬間はわずかに高揚を感じるのですが、「この1食で普段の○食分か。その分を回せば、このあいだ見送った××が買えたな」と考えてしまうので、効果はいまひとつでした。食べてしまえば形の残らないものというのも、蒐集欲が満たされないので、相性がよくないのかもしれません。
もちろん、おいしいものを食べれば、幸福を感じはします。贅沢な飲食と趣味の品の蒐集とを両立できるようなリッチマンではないので、優先度をつけなければならないのです。
どうしても、形の残る物を買うことを優先してしまいがちです。
一方で、自分で買う物とひとから貰う物では、また事情が変わってきます。せっかくの貰い物も、わたしの「素」を知らない方からの贈り物なので、好みに合わないことが多く、お気に入りにならない物がスペースを圧迫するのが頭を悩ませます。自分の好みでないからといって、頂き物を捨てるわけにもいきません。
妻はわたしの好みを把握していますが、なるべく形の残る贈り物をしないように話してあります。
その昔、妻から「キミはオレに色々くれるけど、自分はなにか欲しいものはないの?」と問われた時に「欲しいものはいくらでもあるけど、だいたいは自分で買える程度のものだし、あなたから貰ったものをちゃんと大事にできる自信がないから、形のあるものはくれなくてよい(意訳)」と返した記憶があります。
それでも、仕事が忙しくて買い逃した食玩を「見かけたら買っておいて」と頼んだ際に「別のところで色々払ってもらってるから、お代はいらない」と買ってくれたりします。類似の出来事がいくつか。それらの物品を「これは○○の時に××の経緯で買ってもらったやつで~」と懐かしみながら見せながら「そうだっけ? よく覚えてるねぇ」というような会話をしたりもします。
話は逸れましたが、どうせ買うなら形の残る物を優先して選びます。しかし、ひとから貰うなら消え物がよいのです。わがままなことですが。
増えたものを捨てられない
以前に書いた上記の記事のとおり、わたしはヒトよりモノに愛着を感じます。
長く手元にあれば、その期間に応じて愛着も増します。その分だけ、捨てることができなくなります。
買ったばかりのものに対しては愛着が薄いのですが、真新しいものを捨てるということの抵抗感が強く、やはり捨てられません。
おそらく一般より少しだけアニミズムを意識している為、物を捨てる=殺すことに対する忌避感もあります。レジ袋やティッシュにまでこれが及ぶとゴミ屋敷まっしぐらなので、なるべく考えないようにしていますが。
物を増やすことでストレスを解消し、増えた物を捨てられないのですから、当然荷物は増える一方です。
特段に愛着の湧いていなくても、捨てられない物もあります。
壊れた家電や使用済みの乾電池などの不燃ごみ・粗大ごみです。
週2回収集の可燃ごみは、各日の朝に出すことが習慣づいているので問題ないのです。月1の不燃ごみは、当日に出し忘れたり、日常的に行わない作業に覚える緊張感から避けてしまったりで、中々捨てられません。粗大ごみは、券を買う→電話予約する→当日に忘れず指定の場所に出すという複数の段取りを行えるだけの気力が維持できないので、やはり滅多に捨てられません。
ほんの少しだけ整理ができた
基本的に増える一方の荷物ですが、ここ最近、ほんの少しだけ整理ができました。
まだまだ使えるプラスチックケースを断腸の思いで廃棄しました。
擦り切れてしまったけど愛着が湧いて捨てられなかったタオルを裁って雑巾にしました。
気力を振り絞って、壊れたシュレッダーを粗大ごみに出しました。
月1の不燃ごみの日に早起きして、ようやく諸々を捨てられました。
仕事に使っていた古い資料を、まとめて廃棄しました。
本当にほんの少しですが、荷物が減りました。
ほんの少しです。見た目に変化を感じられるほどに荷物が減ったわけではありません。思ったほどの喪失感はありませんが、それほどの達成感もありません。
蒐集物それぞれが、人生に必要なものかといえば、そうでもないです。衣食住のように生きる為に必須のものではありません。
なので、合理を考えるのなら、鉄道模型のコピペのようなことを自身で行うべきではあります。それを出来るだけの思い切りがないのが、なんとも情けないですね。
おわりに
イマイチまとまりのない記事になりましたが、ある意味で「物が多くて散らかっている」ということを文章で表現できたのではないでしょうか。
冒頭の繰り返しになりますが、好きな物に囲まれてはいても、精神が満たされているかというと疑問があるので、定義されるところのマキシマリストとは言い難い状態です。ミニマリストの対ではあるはずですが、しかしマキシマリストではない。
マキシマムという響きは非常にかっこいいセツリですので、マキシマリストを自称したい気持ちはあります。
積み上げられた物品の山に間借りしているようなものでなく、あくまで部屋の主が自分であるような生活に辿りつきたいですね。そのためには、取捨選択や整理整頓が必要です。これらを実行する為の時間と気力と体力があれば……。特に気力です。気力が足りない。
いつかはきっとマキシマリストに。
ダリラガーンダゴズバーン。
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