「天才」は褒め言葉なのか?

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冒頭文

 おはようございます。なにかが三つ巴になっているのを見るとナレーションを入れて混沌を極めさせたくなる典藻のりもキロクです。

 「オタク」だったり 「メンヘラ」だったり あれやこれやの言葉の細かいことを気にする典藻ですが、それらよりも古くから「これでよいのか」と気にしている言葉があります。

 記事タイトルで既に触れていますが、「天才」という言葉が褒め言葉として適切なのか否かを気にしています。未だ答えが出せないもので、誰かを褒める際に「天才」を使用することを意識的に避けております。
 

褒めているのは努力か才能か

 誰かを褒めるとき、称賛するときに気軽に用いられる「天才」という言葉。これがどうにも気になります。

 天才。天賦の才。天より与えられた持って生まれた才能。

 たとえば比較的若い方が褒め言葉として用いる「神」ですが、これに関しては言われた方も逡巡することなく「自分は神ではないし、『神の御業のよう』という意図だな」と思い至るでしょう。
 しかし、「天才」と言われたのならどうでしょうか。「天賦の才を持っているが如き成果」を指して褒められたのか、「天賦の才そのもの」を指して評されたのか、どう受け取るか迷うのではないでしょうか。迷わない? ここでは迷うということにしておいてください。

 「天才」と評されるような功績を残した方を讃えるのなら、その才能ではなく努力をこそ讃えるべきではないでしょうか。
 ただ「天才」と呼んで「あなたには才能がある。才能があったからこそ結果が出せたのだ」というのは、その努力の否定に他ならないのではないでしょうか。

 典藻はこれが気になって、「天才」と呼ぶことはむしろ失礼に当たるのではないかと考えてしまうのです。
 なので、ただでさえ他人を褒め称える語彙の少ない典藻は困るのです。「天才」を気軽に用いてよいものか否か。
 

「天才的」と称するべきでは

 しかし言葉は難しいもの妙なもの。ひと文字違えば大違い。ひと文字つければ大違い。

 「天才」ではなく「天才的」ならば褒め言葉としての汎用性がグッと高まるように思います。
 その言葉の表すところは先述の「天賦の才を持っているが如き成果」に近くなります。「的」、つまり「ような」という意味の言葉が付いていますからね。

 天より与えられた才能を持っていると称されるのと、まるで天才を持っているかのような能力であると称されるのでは、後者の方がその努力の積み重ねに対する敬意が感じられます。個人の感想です。

 とはいえ、褒め言葉というものは褒められた側が嬉しければ何でもよいはずです。

 典藻自身は言葉ひとつにウジウジグジュグジュと悩んでおりますが、一方で世間一般に「天才」が褒め言葉として用いられていることを知っています。なので、もし言われるようなことがあれば「まさか努力を否定する悪意的なニュアンスを持たせてはおるまい」という前提を持って受け取ります。
 同じく、大抵の方は「天才」と言われれば嬉しいものでしょう。仮に才能だけを褒める意図で努力を否定されたとて、自身の才能を誇っている方であれば純粋に褒め言葉として受け取るでしょう。

 結局のところ、「天才」に限らず言葉というものは発する側と受け取る側の間で意味や意図が概ね共有されているという前提があってこそのコミュニケーションツールです。
 褒めたつもりで相手を怒らせたり、貶されているのに気づかず喜んだり、ヒトはままならなくも面白いものです。

わたしは天才

 あれやこれやそれやどれやと御託を並べましたが、典藻は自分を天才だと思っています。思っているといいますか、論理的帰結としてそのように捉えております。

 とても簡単で、そして非常に論理的な話です。
 先ず、以前の記事で書きました通り、典藻は努力をしたことがありません。
 次に、努力をしたわけでもないのに(秀でた何かを持ってはいませんが)どうにかこうにか生きています。
 これは生まれて以降に努力で積み重ねたものがない=持って生まれた能力だけで生きていけているということです。
 つまり! 天才! キューイーディー、というやつですね。

 しかし特段優秀な何かを持つわけでも、そういった功績を残しているわけでもないので他人からは「天才」とは呼ばれません。わたしはこんなにも天才ですのに。
 天運を持ち、天才を持ち。
 あとよく思い付きの見切り発車で行動しているので、たぶん天啓も得ています。
 天運、天才、天啓を持っているのに、努力でそれを活かすことをしない宝の持ち腐れ。

おわりに

 途中でも述べましたが、所詮言葉は便利な道具のひとつです。発する側次第、受け取る側次第、あるいは時と場合と場所次第で意思疎通の可否が左右されます。言葉ひとつに拘るのは視野狭窄です。
 なので気軽にインスタントにカジュアルにジャンクにスナック感覚で使っていくべき「天才」という褒め言葉ですが、しかし典藻は気が乗りません。
 使うも自由、使わざるも自由。言われて喜ぶも自由、言われて憤るも自由。と、いうことで。

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