友情・努力・勝利なるもの

その他





冒頭文

 おはようございます。好きなジャンプ漫画はそこそこある典藻のりもキロクです。
 遊戯王、ぬ~べ~、BLACK CAT、武装錬金、ドラゴンボール……好きな作品はたくさんあります。性別:男性ですからね。少年漫画に心躍った時期もあるのです。

 そんな少年漫画の大家のひとつである週刊少年ジャンプが掲げている「友情・努力・勝利」について、毎度「自分には縁遠いものだなあ」と思う典藻です。
 
 いずれも典藻からは縁遠いもの。
 縁遠いからこそ自分にはないものを求めて少年漫画に心を熱くするのか、あるいは縁遠いものに実感がわかずとも心を惹きつけさせるのが漫画家の手腕なのか。どちらにせよ、少年心に火を点ける作品群はよきものです。

 今回はそんな少年漫画の話……ということでもなく、「友情・努力・勝利」という「自分にないもの」について思いを馳せるというお話です。ふふふ。今回も冗長になりますよ。

友情

 友情。友を想う気持ち。友と心を通わせること。ガルルモンをワーガルルモンに進化させるもの。

 わたしもかつては友情というなにかに強く憧れたものです。
 友情努力勝利を謳うジャンプ漫画の登場人物に言わせれば「憧れは理解から最も遠い感情」とのこと。そりゃあ友情とは何かを求めて迷走するわけです。

 ここで、大人が子どもに伝えたい大切なメッセージを込めた「子供向け番組」の登場人物のセリフを引用します。
 仮面ライダーに曰く「同じ道を往くのはただの仲間にすぎない。別々の道を共に立って往けるのは友達だ。」とのこと。
 プリキュア(の登場人物)に曰く「30過ぎた大人にそんなもの存在しない」とのこと。

 どちらも至言ですね。30歳を数えずとも、友人がいなかった期間はありますが。

 幼稚園~中学校に通っていた頃は無邪気だったこともあり友人と呼べる相手はいました。もちろん、わたしが一方的にそう思っていただけだとは思いますが。
 高校の頃はまあ人間関係に少々失敗しはしましたが、最後の1年間は話が出来るクラスメイトもいました。
 大学以降ですか? HAHAHA 20を過ぎた成人おとなに友達なんて存在しなくたってよいじゃあないですか。わたしは邪悪なヒトモドキですので、ヒト同士の温かな心の交流に混ざることなど望むべくもないのですよ。

 ただ幸いなことに、現状はわたしを友人と呼んでくださる方もいらっしゃいます。いわゆるネット上の友人というやつです。
 友人とは数で測るものではありませんが、たった1人の大事な友人ですとも。
 

努力

 努力。何かを成し遂げるために何かを捧げること。その過程が尊ばれるもの。

 わたしは努力をしたことがありません。今のわたしに何か身に着いているスキルがあるとしても、それは必要に迫られて獲得したものです。ポケモンでいうならレベルアップで覚えた技ではなく、ストーリー進行で手に入るひでんマシンで覚えた技です。機会と適性があったから覚えただけの行きずりの技能です。

 昔から、努力をしない性格だということは自覚していました。
 逆上がりはできない。二重跳びはできない。マラソンは常にびりっけつ。練習であっても「試合」と名につくものに勝った試しもない。
 テストで点を獲る方法を知ってはいても勉学として身につくわけでもない。人間関係は自ら壊していく。
 ひとえにすべて、わたしが努力してこなかったからです。
 努力が報われたヒトにも、報われずとも努力したヒトにも劣等感を強く覚えます。


 なので、努力を強く押し出す方は苦手です。
 「努力は裏切らない」とか「努力すればこそ報われる」だとか。言われずとも分かっています。わかりきっていることを当てつけないでほしいのです。 


 ひとに努力を強要したり、努力が足りないと言ってくる相手も苦手です。
 というか、わたしのすべてを知っているわけでもないのに努力が足りないとは何でしょうか。お前にぼくの何がわかると言うのだ。結果が伴わなければ努力じゃない? 知ったことかそんなもの。お前のモノサシで他人を測るんじゃあない。神様でもなければ上司でもないのに、いつからお前は他人を評価するような立場にいるのだ。豆腐の角に頭ぶつけてタンスの角に小指ぶつけろ。などと、怒りが漏れてしまう程度には苦手です。

 ヒトは皆、スタート地点も進行方向も違うのだから、現在地点にばらつきがあるのは当然でしょう。
 野球で努力していれば皆がイチローやオータニの立つ場所にたどり着けるわけでなし。漫画を描く方のすべてが手塚治虫や鳥山明に憧れるわけでもなし。
 ヒトは配られた手札で勝負するしかないのですから、過程や結果が違うのは当然です。

 自分のモノサシで他人の努力を測ろうなどというのは自己中心性の産物です。「オマエは努力が足りない」だとか「これぐらいオレにできるのだからオマエにもできるはず」という短絡さ浅ましさ粗暴さ。
 うっさいバーカ! 知ったことかそんなもの! わたしはわたしとして生きているのだ。お前とは別の人間なのだ。


 あと付け加えるのなら、その過程と結果に満足して自分で自分をほめられるのなら、それを努力と呼んでよいものと思います。
 カラオケの点数が上がったとか、ダイエットで100g痩せたとか、貯金が500円たまったとか、俗なことであっても「何かをしようとした過程」と「結果として残った何か」に満足出来たら、それは努力なのではないでしょうか。
 そういった意味であっても、やはりわたしには努力はできませんが。
 

勝利

 勝利。競い合いに勝つこと。敗者の想いを引き継ぎ責任を負うこと。

 勝利というものもやはりわたしには縁遠いもの。
 ジャンプ漫画のキャラクターに倣って言うのなら「『また勝てなかった』」が続く人生です。

 ゲームなどでの勝利というものなら味わったことはあります。しかしこれは遊びのなかでのことです。
 勝ち負けのはっきりする競い合いということであれば、先述の通り努力をしないわたしですので、勝利というよい結果を得られるはずもありません。部活での練習試合や本番の試合で勝てたことはありません。

 そのほかの分野で勝てたといえることもあるかもしれませんが、大体は時の運によるもの。わたし、運だけはとてもよいので。
 母のもとに生まれ、妻に出会えたのだから天運を持っていると断言できます。
 勝負は時の運と申しますが、その天運頼りで勝ったとしてそれはわたしの勝利ではありません。

 競い合いから逃げているという面もあります。
 基本的にヒトは相互不理解の生き物ですから、妻以外とは言い争いになりそうになった時点で矛を収めて負けておきます。相手が勝ってスッキリするならそれでよいでしょうし。
(もちろん、仕事上のあれやこれやで人命に関わる場合は言い争いをしてでもお互いに最善手や妥協点と思えるものを探りますが。)
 まあ競い合い以前にヒトと関わることそのものを避ける傾向にあるので、案外トラブルは起きないのですが。

 しかし血の気が多いことも自覚してはいますので、諍いがあれば両者傷だらけになるまで戦ってしまうかもしれません。戦わずして矛を収めるというのも案外賢い選択をしているのではないかと自負しております。

おわりに

 縁遠いなりに、いえ縁遠いものだからこそ憧れて、「友情とは何か。努力とは何か。勝利とは何か」と考えることが多かった多感な頃のわたし。
 自分の悪性に気が付かされて「善とは何か」と焦がれたのと同じ感覚です。

 今なら自分の人生に(ほぼ)関係のないものと割り切りましたので「無いものはない! よそはよそ! うちはうち!」と言えます。
 
 友情なるものを自らの手で壊し、努力なるものに自らの意志で背を向け、勝利なるものは最初から自らの手に収まらない大きさでしたとさ。自己覚知ができて、めでたしめでたし。


 ヒトはパンのみに生きるにあらず、また友情・努力・勝利のみに生きるにもあらず。
 少年漫画の三原則が無かったとして死ぬわけではありません。深く悩んだ時間は無駄になりませんし、悩んだ思い出を持って生きていればよろしいのではないでしょうか。
 と、自分に言い聞かせてみますとも。

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