自カイ心02 終身不名誉ストーカー

自カイ心





冒頭文:ストーカー加害者として

 わたしの心に影を落とす最大の要因は、やはり、自身が終身不名誉ストーカーであるということだと思います。人格形成上の難という点で考えるのなら、父性の不在や学校に馴染めなかったことも大きいのですが、それらの積み重ねが為した負の成果物として、経歴に「ストーカー加害者」を刻むことになったのが、人生のターニングポイントです。

 公僕のお世話になったわけではないので、厳密な意味での「犯罪」とは呼べないのでしょうが、当事者同士での認識においては、まぎれもなく罪悪であります。どうあれ、わたしはストーカーなのです。

 わたしには、まともに人間関係を構築・維持できないのだと思い知った出来事であり、無自覚の悪性であることに気が付かされたきっかけであり、人間嫌いの価値観が補強された一因でもあります。であるのなら、己が心か頭かの異常を省みるにあたり、これについて触れないわけにはいきません。今回は、わたしの終身不名誉ストーカーという自認にいたる経緯について書いておきます。

 犯罪加害者の視点から語るにあたり、都合の悪い部分を意識的・無意識的に省略したり、あるいは自己防衛・自己正当化の為に忘れ去っている行間があるはずです。信用できない語り手によるものという前提で、お読みいただければと思います。

「ストーカー」と呼ばれるに至る経緯

 大雑把に言えば、初恋の相手に告白をしてフラれ、その後に話しかけても無視されるようになり、人づてに「ストーカーみたいで怖いって言ってたよ」と聞いたというのが事の顛末です。ええ、はい。これでは、あまりに大雑把すぎますので、順を追って話していきましょう。

 わたしが初恋と呼ぶ相手に出会ったのは、大学に入ってすぐの頃でした。同じ学科の年上の女性でして、会った段階では別に何かを感じる相手ではありませんでした。断らずともわかることでしょうが、一応補足しておきますと、これは妻のことではありません。

 当時のわたしは、高校の頃の体験(過去記事参照)を経て、「自分から動けば交友関係を持つことができる」と思っていました。そこで、誰ひとりとして知り合いのいない環境に入るのをよいことに「大学デビュー」を試みました。外見上のイメチェンではなく、柄にもない「明るく気さくな人物」を装うということです。まあ、付け焼刃ですので、はたから見れば違和感を覚えるものだったとは思います。

 自分の延長線上にはあるが、素の自分ではない自分……ひらたく言えば、かっこつけていたわけですが、なにかのきっかけで件の相手に見抜かれました。
 いつかの7月のこと。友人(知人?)としての距離感で、高校の頃に何があったか話してみろと、夕方の食堂に誘われたのです。人もまばらな隅の方で、テーブルをはさんで対面に座り、わたしはぽつぽつと話していきました。ひととおり聞き終わった相手は、何か優しい言葉をかけて、テーブルの向かいから背伸びし手を伸ばし、わたしの頭を撫でてくれました。

 優しい言葉というのがどのようなものだったかは覚えていません。「つらかったね」だった気もしますし「がんばったね」だったかもしれません。あるいはその両方とも思えます。大事なのは、どのような文句であったかではありません。今まで誰にも話せなかった辛い気持ちを、はじめて他人に話すことができたのです。それを、バカにせず聞いてくれて、優しい言葉と共に頭を撫でられる……そのような振る舞いを年上女性からされれば、意識してしまうのは無理からぬことです。我ながら単純ではありますが。
 後日に、1時間程度話しながら夜道を歩くという機会もあり、当時のわたしは自身の感情を「初恋」であると認識しました。


 この「好き」が真に恋愛的なものだった否かは、何とも言えません。今と同じく、依存・執着を好意と履き違えていた言われれば、否定はできません。ただ、相手に感情を向けて、相手からの感情を求めていたのは確かなことです。

 ここで響いてくるのが対人スキルの不足と「大学デビュー」による無理なキャラづくりです。ありていに言えば、距離感を間違えました。「話を聞いてくれて、頭を撫でられる」というクリティカルな出来事があったからといって、相手に「好き」という言葉を伝えるのは、まあ自分を客観視できていませんでした。極端にネガティブな言い方をすれば、わたしなんぞから「好き」と言われてポジティブに捉えられる他人なんて、世界広しと言えど妻ぐらいなものです。

 また、今も直らないわたしの悪癖で、好意を向ける相手に対して、余計な心配や推量を重ねてしまうというものがあります。好き合う者同士であれば問題ないのでしょうが、一方的に感情を向けて来るブ男からあれこれ心配されるというのは、さぞかし不快だったでしょう。いえ、これに関しては言葉として伝えてはいませんでしたが、態度には出ていたと思いますので。

 ステレオタイプなストーカーらしい振る舞いとして、反省すべきことが明確にひとつあります。相手が深夜徘徊を趣味にしていると聞き、身の危険を案じ、夜更かししたある日に彼女の下宿先周辺を深夜散歩するということをしてしまいました。弁明するのなら、魔が差したたったの1回という点ですが、もしその1回を彼女がたまたま見知ったのならば、まあたしかにストーカーと呼びたくもなるでしょう。



 秋のことだったか、冬のことだったか。彼女に「恋人になってほしい」と告白し、フラれました。「恋人にはなれないけど、これからも友達として接したい」という、ありがちな断り文句を真に受けたのが、よくありませんでした。わたしにとっての友達の距離感というものが、世間的なそれと比べて異常であることを知らなかったのが加害/被害を発生させました。

 フラれた翌日のこと、「友達として」いつものように世間話をしたいと思い、バス停から構内へと続く道が見える敷地内のベンチで、彼女が来るのを待っていました。そうして現れた彼女に話しかけたわけですが、後にこれが「待ち伏せされてて、ストーカーみたいで怖かった」(伝聞)と言われたわけです。


 この伝聞までの間、話しかけても無視されるし、メールや電話は着信拒否されているという状況にあり、少しずつ精神的なダメージが蓄積していきました。時期を同じくして、ほかに心当たりがない慢性的な貧血に悩まされるようになっていたので、精神面からの影響が体にでたものと思います。
 愚かしいことに、その時点でのわたしの視点では、何故無視されるのかをわかっていませんでした。状況を見かねてのことなのか、ゴシップを面白がってのことなのか、彼女の友人のひとりが「本人から聞いたことで、ちょっと言いづらいんだけど」という前置きと共にストーカー云々を教えてくれました。とてもとてもショックでした。正直なことを言えば、「怖がらせてしまって申し訳ない」の気持ちよりも「どうして」という否認の感情が先行しました。


言葉は軽くて薄っぺら

 現実の否認から入っているわけですので、逃避行動として「どうしたら好かれるか、認められるか」を考えるようになりました。もともと、他人に好かれる為には有用性を示さなければならないという考えを持っていたわたしは、おかしな考えを持ちました。「今現在の彼女の役に立つこと」として「悩みの種であり恐怖の対象であるストーカーがこの世から消えること」という結論に至り、自害の計画立案に移ったのです。

 どうやって死ねば、無関係の他人に迷惑をかけないかとかということを考えていました。関連して、身の回りの品々を売ったり譲ったりして、少しずつ処分するという、今で言うところの「終活」もしていました。「終活」していた頃のことに関しては、以前に記事に書いた気がします。

 とはいえ、こうして今ブログを書いていることからわかります通り、死ぬことはできませんでした。
 比較的に死体の状態が綺麗で他者へかける迷惑が最小限になり、かつ薬物等特殊なものを必要としない方法として、太い血管を切っての失血死を選んだのですが、実行には移せませんでした。どれぐらいの力を込めれば人体は切れるのかと、血管を避けて左腕で試し切りをしたのがよくありませんでした。死に致る傷ではないのに、ぞわぞわとした恐怖心や嫌悪感やらで、本番には至れなくなりました。だいぶ目立たなくなりましたが、今でも皮膚が突っ張って傷痕が残っています。痕を見ると、ぞわぞわとした感覚も思い出されます。位置的に、よほど運が悪くなければ死ぬような箇所でもないので、ずいぶん日和った試し切りだったなぁと自嘲もします。

 「好き」と言った相手の役に立つことよりも、「死にたくない」という自分都合を優先して、今ものうのうと生きています。わたしが用いるヒトモドキ、自己愛のケダモノという自認表現の所以のひとつですね。他人にいくら綺麗ごとの言葉を向けたところで、相手の為に身を捧げることもできないのですから。

 愛だの恋だのという言葉を並べても、結局は我が身可愛さで何を捨てることもできませんでした。だから、わたしの言葉は軽薄なものです。不義理で不誠実な嘘つきです。その欺瞞から零れる「好き」を許してくれる妻が奇特なだけで、わたしの言葉に重みはありません。

他者への好意や感謝が「人間嫌い」の一面を構成する

 いくつかの理由から「人間嫌い」を自称しているわたしですが、その一面を構成しているのが、「ストーカー」後の一連の経験と逡巡です。

 「ストーカー被害者」の当人や、わたしにそれを伝えた人間(振り返るとフレネミーだった感がありますね)がわたしをストーカーとして扱うのは、正当なものかと思います。しかし、彼女サイドが発する噂の表層だけを聞いて、わたしを「女好きのロクデナシ」のように扱う人もいました。当時は気持ちの凹みよう、塞ぎようもあり、反駁することもありませんでした。
 正義の御旗を掲げて、その旗で殴ってくる人間というのは、みなさまにも心当たりがあるでしょう。彼ら/彼女らにとっての「悪」は、事情を聴取すべくもなく汲むべくもなく、ただただ攻撃対象として扱うことが許されるものなのです。まあ、仮面ライダー的にもFate的にも、旗は殴る為の武器ですから、この使い方は正しいのかもしれませんね。


 不公正な正義に嫌気がさして「人間嫌い」になったのかといえば、それは違うと言わせて頂きましょう。
 当時を待つまでもなく、多数派こそ正義であり、正しさとは夥しさであるという答えは高校時代までに得ていました。ストーカーと他称されるわたしに味方がいるわけもなく、明確に少数派になった以上、正義の名のもとに悪として扱われることは仕方のないことでした。そう思っていなければ、今もって悪性を名乗ることなどなく、「わたしは間違っていない! ストーカーなんかじゃない!」と喚いていたのでないかと。

 繰り返しになりますが、わたしの「人間嫌い」は複数の要因によって構成されていると自己分析をしています。そのうちのひとつは、わたしにもある「人間好き」の部分の延長にあります。ストーカー云々の一連の出来事の中で、この「人間好き」が「人間嫌い」に転じました。

 わたしを悪として扱う人間がいたのは確かですが、全員が全員、そうではありません。噂が聞こえてこない範囲の人間は、当然そんな話を知らないので、無関係で中立でした。当時は、その中立の存在に気持ちを助けられたものですが、その人たちにも女性が含まれていたことで、わたしを「女好きのロクデナシ」だと思っていた人から、関わるなと咎められました。
 そんな具合で過ごしていた中で、なんやかんやあり、妻(もちろん当時は入籍前ですが)と交際することになりました。ここの「なんやかんや」は本題ではないのでさておき、妻に対しての精いっぱいの誠実さとして、ストーカーの件について、わたし視点での事情説明を行いました。それを踏まえた上で、わたしを「ストーカーである」という属性でなく、いち個人として見て、関わってくれました。

 そういう経験をしたのなら、「人間好き」が「人間嫌い」になるわけはないとお思いでしょうか? なるほど。最近も、ツイッターで「他者への感謝の気持ちがあるなら、人間を嫌いなんて言えないだろう」(要約)というご意見を拝見しました。
 まあ、わたしが他者への感謝が足りないようにみえるというのも、さもありなんです。どうぞ好きにおっしゃってください。

 しかし、逆です。妻への謝意や好意が高まれば高まるほど、「人間嫌い」は進行しました。他者である妻を好きならば、わたしは人間が好きなのかもしれません。一方で、わたしにとって、こんなに大事な妻を、かつて傷つけたのもまた人間なのです。妻を傷つけたそいつらを、「好き」だなどとは口が裂けても言えません。過去に戻って当時の妻を庇うこともできません。ただただ、過ぎてしまった加害を憎むことしかできません。ならば、そんなやつらは人間ではないと思えてしまえば、「わたしは『人間』が好きだ!」と言えたのかもしれません。ですが、それも叶いません。

 何故かといえば、当時まさにわたしこそが「誰かを傷つけた非人間」であり「片一方の事情だけ聞いた連中から見た悪人」だったわけです。妻を傷つけた顔も知らない奴らに向ける憎しみは、そのままわたしに返ってくるものです。悪の側にも感情や気持ちがあり、彼ら/彼女らが傷つけば悲しむ人もいて、振る舞いはどうあれ「人間」ではあるのです。それを、こちらの都合で「お前らは人間じゃあない。だから、お前らを嫌っていたとしても、自分は『人間好き』なのだ」とは思えませんでした。



 妻だけではありません。世に善き人々がたくさんいることは、当然知っていました。直接かかわった人の中でも、よくしてくれた人、お世話になった人はいます。善き人を思い出す度、その人生の数だけ、わたしが好きな人々を傷つける人間がいるのであろうことを考えさせられます。そしてやはり、善き人々を踏みにじるのもまた人間で、奴らに「非人間」のレッテルを貼るのは、自分がやられて辛かったことと同じです。己の欲せざるところ他人に施すことなかれ、です。
 わたしにとって不都合で憎い相手だからといって、それを「人間」と見なさないのは、個人の人格に向き合わない姿勢です。他人を虐げる、食い物にする、傷つけても何とも思わない……そういった悪性だって、「人間」らしさでしょう。現に、わたしというホモサピエンスは、ストーカー加害者でありながら自殺もしないで、のうのうと生きているわけです。悪性そのものです。(それでも、なけなしの罪悪感はあって、自認がヒトモドキ、自己愛のケダモノになっているのですが)

 「人間」らしさである悪性に向き合わずして、わたしは「人間好き」とは自称できません。
 そして、その悪性は妻をはじめとした大切な人々を傷つけるものであり、「そんなところも含めて人間が好き」とは言えません。好きな人、感謝する人がいるから、わたしは「人間嫌い」なのです。

 加えて、ここ1年と少しの間に好きな人が増えて、「人間嫌い」が更に深まってように感じています。
 親兄弟、職場の人間、過去現在のエトセトラ……やはり世の中には、わたしが好きな人を傷つける「人間」が溢れているのだと聞かされて、知らされて、顔も知らない相手のことが憎くて憎くて仕方ないのです。日々呪詛を念じたところで、自分の気が滅入らせることしかできません。
 好きな人が増えるほど、「人間嫌い」を構成する一面が強固になっていきます。誰に何と言われようが、わたしの好きな人を傷つける「人間」を、好きになれるわけないでしょう。

自省も自制も効かない終身不名誉ストーカー

 いろいろな心の動きを経験した一連の出来事を経て、なお、ストーカー気質は治りません。

 他者との距離感を間違えるということは学習しましたので、基本的に「素」で話す相手は妻だけにしています。事務所では「冷たい」と文句を言われるビジネスライクな面、現場では自己矛盾に自嘲する「人間好き」な面……誰もがそうしているように、場面場面で顔を使い分けています。ただ、一定以上の距離、心のソーシャルディスタンスを保っています。

 ですが、「素」に近づけば近づくほど、相手の人格を好きであればあるほど、(たぶん)元来のストーカー気質が強く出ます。余計な心配、見捨てられ不安、心的なつきまとい、等々……。はたから見れば、妻を相手に家庭内ストーカーをしているようにしか見えないでしょう。妻が意に介さないので、被害・加害が成立していないだけのことでし。好きな相手を前にすれば、未だにわたしはストーカーです。

 自省はしている「つもり」で、自制は不足していて、被害者である彼女から許される日なんてこないわけですから、わたしは「終身不名誉ストーカー」なのです。

「推し活」を騙るネットストーカー

 先に述べたストーカーに至る経緯を読んで下さった方であれば、わたしが「推し活」と呼ぶものが如何に欺瞞に満ちているかとおわかり頂けたかと思います。

 便利でありふれた言葉で誤魔化していても、その中身はストーカー当時の焼き直しでしかありません。
 「優しい言葉をかけられて好きになる」に始まり、四六時中あれこれと余計な心配をして、軽薄な言葉を並べ立ててつきまとう。リアルかネットかの差はあれど、やっていることは当時と変わらないのです。最初は自覚してはいなかったのです。しかし、色々を経て客観視してみれば、また間違えてしまっていました。「好き」の言葉に滅私が足りないというのも昔と同じです。「推し活」だろうと「報恩」だろうと、呼び方を変えたところで仕方ありません。

おわりに

 ストーカー当時のことは、思い出すと心が乱れます。ストーカーと呼ばれたことが悲しかったのかもしれませんし、当事者でもないのにわたしを悪とした人に怒っているのかもしれません。(まあ、たしかにわたしが加害者であることに間違いはないのですが)
 それがよほど辛かったからなのか、「好きな人から」「拒絶されて」「犯罪者扱いされる」という3つが重なると、発作的に具合を悪くしてしまうのでしょう。トラウマ=心の疵と呼ぶべきものか否かは、わたしは専門家ではありませんから、何とも言えません。受診もしていませんし。

 その辛さの原因を作ったのが自分であり、苦しさを誰にぶつけられるものではありません。少なくともわたしの視点では「ふつうの振る舞いをしたら」「距離感を間違えて」「嫌われた」という出来事でした。自分基準での当たり前の接し方をすることが悪性なのだと知ったことは、堪えました。

 前向きになるにしても、終身不名誉ストーカーであることを、捨ててよい道理はありません。それ自体は一生忘れずに、自分が悪性であることも自覚して、でも人間社会で生きないといけません。他人の言葉を借りて、いつも通りの問いかけをするのなら、「俺はどう償えばいい? 答えろ、答えてみろルドガー」です。償いの場をもらえたからといって、今度こそ死ねるというわけではないでしょう。

 加害者が発してよい言葉ではありませんが、わたしは、いつの日にか許されたいです。

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