街で見かけた綺麗なお嬢さんと自己表現の話

その他





さいしょに

 最初に断っておきますと、まあまあ気持ち悪い話を含みます。特に女性は不快に感じる内容かと思いますので、ブラウザバック推奨です。もしお読みになるという場合は、身構えて頂けますと幸いです。

綺麗なお嬢さんを見かけた

 昨日ブルースカイに上記のような長めの投稿をしておりました。
 投稿してみてから、こういった長い文章はブログに書くべきではと思いつきましたので、少しだけ話をふくらませて記事にしようかと思います。


 昨日の日中のことです。立ち寄ったコンビニで、とんでもなく綺麗なお嬢さんを見かけました。
 いくらわたしでも、他人をジロジロ見てはいけないことぐらいは心得ていますので、よく見たわけではありません。しかし、視界に入った瞬間に感じた「すごい美人!」という印象が強いです。視線を逸らした後も、コンビニで買い物する間、つい目で追ってしまい、視界に入ることがありましたが、やはり綺麗な方でした。


 さて、わたしが「ぽっちゃりした女の子が好き」であるというのは、ここだけの内緒話にしておいてほしいのですが……まあ、そういった好みの為に、街中で「厚み」のある方を見かけると、ついつい気になってしまいます。なんとなく視界の端に、よい「厚み」が見えると、つい目を向けてしまうのです。そういった具合で向けた視線の先に、件の綺麗なお嬢さんがいらっしゃったわけです。


 身の丈は160cmほどでしょうか。綺麗な長い黒髪と落ち着いた服装に、メガネの似合うお嬢さんでした。……服飾に関する言葉をほとんど知らないので、あの型の服がなんという名前のものなのかわからず、表現しきれないのがもどかしいです。

 一瞬で「美人」と認識したその横顔と、立ち姿勢の良さから漂う気品、その全体の雰囲気から「美しい」と感じました。
 そしてなにより印象的なのが、とても綺麗な二重あごだったことです。「綺麗な二重あご」というのは、一般的な基準に照らせばオクシモロンになってしまうのかもしれません。いえ、しかしですね、わたしにはとてもとても「整った」「理想的な」「美しい」ものに見えたのです。たるみから形成されるのでなく、肉付きの良さから、顎を引いているわけでもないのに自然に形作られるそれは、ため息がでるほどの「綺麗な二重あご」でした。
 あご……というか顔・首周りの脂肪だって、目や鼻と同じく顔のパーツです。その形が整っていることを指して「綺麗」と評することに不思議はないでしょう。なんなら、同じ「二重」なのですから、「二重まぶた」と同じぐらいに「二重あご」もありがたがられてもよいのではないかと思うのです。


 わたしが自然と視線を向けてしまうぐらいの「厚み」がひと目でわかり、そして素晴らしい「綺麗な二重あご」をお持ちなわけですから、世間的に「ぽっちゃり」と呼ぶべき体型なのでしょう。その「厚み」と全体の「美しさ」がよいバランスで両立していまして、最初に視界に入った一瞬の情景……飲料ケースの前で品を眺める姿は一種の芸術のようでした。あの瞬間を目に焼き付けることができたなら、どんなによかったことでしょうか。

自己表現と自己肯定感

 ……と、まあ、随分と気持ち悪く語ってしまいましたが、本題はここからです。

 見かけたお嬢さんを「綺麗」と感じたのは、もちろん当人の造作が整っているということもありますし、加えて、わたしが「厚み」を好意的に捉えているということもありますが、一番大きかったのは、その自己表現の巧みさにあるのではないかと考えるのです。

 自身に似合う服装選びであったり、品のよい立ち姿であったり、「自分」というものをよく見せることに長けた方だったのだと思います。こういった自己表現の巧拙は、自己肯定感の強弱と関連するものと考えます。
 自分自身というものを認めることができて、好きでいられるのなら、それを魅力的にポジティブに表現することができるでしょう。一方で、自分自身をうまく表現できない為に、自分を好きになれないということもあるでしょう。
 どちらが先かという話にはなってしまいますが、それらが上手く成立した「自分らしさ」をまとう姿は、美しく輝かしく見えるものなのだと思います。



 やや話は逸れまして、美しさとか輝きということはさておき。
 少なくとも、自分自身を好きになれない状態で行う自己表現は、自分を好意的に見てくれる人を悲しませることもあるものと思います。
 いくらか前のこと、わたしが気を病んで、そこから復帰した時のことです。自然と記事に滲んだネガティブ……自傷や自嘲、自虐といったものが、自分に良くしてくれる人を悲しませるものだと気づかされました。(だからといって即座に改善されるものでもないので、今も度々顔を覗かせますが)
 あるいは、こちらは「推し活疲れ」ということで記事にしたものですが、我が恩人で天使な乙女が、自身を指して「底辺」だとか「クソみたいな」だとかと口にする度に、わたしはとても悲しくなるわけです。
 自分のことを好きになれば、即ち輝けるというものではありませんが、少なからず、悲しませる人は減るものと思います。



 閑話休題。
 ありのままの「自分らしさ」というものを受け入れて、認めて、好きになって、それをどう活かすか魅せるかと考えて、その結果として結実するのが、件のお嬢さんのような一目でわかる「美しさ」なのではないかと思うわけです。
 そうでなくても、自分のことを好きになれないよりは、好きになれた方が自他が幸福に近づくという、ごく当たり前の話でもあります。

自分らしさと理想との隔たり

 しかし、悲しいことに「自分らしさ」を表現することと「理想の自分」が実現することは、必ずしも一致するわけではありません。


 わたしが「綺麗なお嬢さん」と認識したとして。
 それが当人の自己表現の賜物だったとして。
 当人の思う、こう見られたいという「理想の自分」の姿であるかというのはまた別の話です。


 もしかしたら、「綺麗」に見られるよりも「可愛い」と見られたいかもしれません。あるいは、わたしのように特殊な嗜好の者に「厚み」を含めて持ち上げられるよりも、「細身でシュッとしていてカッコイイ」のが理想の姿かもしれません。
 わたしの言うところの「綺麗な二重あご」というのも、まあ一般的に考えれば、本人にとってのコンプレックスであるかもしれません。
 上手な自己表現であると認識した落ち着いた服装--体の線の出ないゆったりしたものでした--が、当人の好むものかどうかは、やはりわかりません。すきにぃじぃんず? とかを履いて、おへそを出すのに憧れているかもしれないわけです。


「ぽっちゃりしている今のあなたが素敵」
「背が高くてかっこいい」
「綺麗な顔立ちで、大人っぽい服装を着こなせて羨ましい」
 それらは、発する方からすれば褒め言葉であっても、受け取る側からすれば「理想から遠いありのままの自分」を思い知らされて、素直に喜べるものではないかもしれないのです。


 「自分らしさ」というのは、逃れられない現実であり、時に呪いにもなるものです。
 その現実という呪いと折り合いをつけられるかどうかが、先に挙げた「美しさ」への第一歩なのだと思います。


 以前の記事で書いた気がしますが、たとえば、わたしの理想の外見は「お人形のような美少女(美少年でも妥協しましょう)」なわけですし、フリフリの服を着たいわけです。しかし、現実の「自分らしさ」というのは、お人形のように整った美しさもなければ、そもそも少女という存在になれない性別です。
 この「自分らしさ」を受け入れるにあたって、美しくなくても好いてくれる妻の存在であったり、体の大きさと頑丈さが仕事において便利であるという機能性の面であったりと「理想には程遠いけど、それでも捨てたものじゃない」と考える過程が重要でした。

 或いは、理想の精神として「わたしの英雄」と呼ぶ人物像があるわけですが、やはりこれにも程遠い。むしろ真逆であるとすら言えます。
 それに気づいたときから今に至るまで、自己矛盾や罪悪感に悶えているわけですが、そんな悪党・悪逆・悪性の人格であることを身悶えながらも受け入れて早十数年です。


 「自分らしさ」の受け入れというのは、「認める」「好きになる」という表現であれば文句は綺麗ですが、ありていに言えば「開き直る」ことができるかどうかです。
 お人形のような美少女の対極に位置する、図体のデカいブ男であると自己を知った上で、「まあいいか!」と開き直れるかどうかです。


 理想の自分にはなれない。でも、ありのままの自分にだって、よいところがある。
 あるいは、自分では好きになれない自分を、それでも好きでいてくれる人がいることに気づく。
 そういう発見があるか否かが「自分らしさ」と「理想の自分」との間に折り合いをつける鍵なのだと思います。

おわりに

 フェティシズムの発露と、やや真面目な話とが混じってしまいました。カオスです。街中で見かけた人の話から、まあ、随分と飛躍したものです。
 横顔を一瞬見ただけの、当然名前も知らない、どこかの誰かな「綺麗なお嬢さん」にそれだけ心動かされるものがあったという話です。感動する程の美人だったということです。当人の理想や内心は知る由もありませんが、「自分らしさ」が表現されているであろうその姿はやはり「美しい」ものでした。


 そして、改めてわたしは「ぽっちゃりした女の子が好き」でよかったと感じました。
 細身であっても、厚めであっても、どちらにも魅力を感じられるというのは、単純に、好ましく感じる機会が増えるということです。先天的か後天的かは判然としませんが、よい感性を持てて、得しています。記事内で繰り返し用いました「綺麗な二重あご」という表現は、少数派の感性からくるものだとはわかっていますが、そのおかげで「美しい」と捉えられるものが増えるわけですから、よいことです。

 
 そういった少数派の感性もまた、わたしの「自分らしさ」です。これを受け入れているからこそ、好きになれるものもあります。そして、その好きを表現することで出来た縁もあります。
 わたしの振る舞いが「美しい」ものかは、自分では評価できません。ですが、「自分らしさ」の受け入れと自己表現は、そこそこに出来ているのではないかと思います。

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