わたしの文章は読みづらいのか?

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 前々回、前回の続きになります。わたしの書くものに金銭的な価値はなく、わたし自身にアピールできるスキルがないという話をしていました。

 現状がどうであれ、文章に金銭的価値を発生させようとするのなら、読者に「面白い」と思ってもらえることは必須条件です。たとえ、わたし自身にとっては何のこだわりも面白みもない記事だったとしても、読者からの評価が高いのなら、それが「よい記事」になります。とにもかくにも「面白い」と言わせることが最重要です。


 ところで、面白さ以前の話として、わたしの書いた文章は読みづらいのではないかと思っている節があります。


 4年間ブログを運営してきまして、1度だけ、わたしの目に見える場所で、記事に対しての不快感を示されたことがあります。相手に嫌な思いをさせてしまった申し訳なさはありましたが、その内容は「記事に書いていないこと」を読み取って不快であると訴えているものでして、この意見をもとに記事を非公開にしたことについては、未だにモヤモヤが残ります。
 この悲しく悔しい出来事も、そもそもはわたしの文章が読みづらかったことが原因なのかもしれません。「書いていないこと」を読み取れてしまう文章だったのが問題だったのではないかと、考えるわけです。


 このブログにも固定読者でいてくださる方々が存在します。その方々から「なに書いてあるかわからない」と直接言われたことはありません。わざわざ言ってくれるだけの関係性でないといえば、まあそれまでですが。

 たまに記事を覗く妻からは「これどういう意味?」と訊かれるようなことはないです。
 ただ、これが読みづらさを否定する材料にはなりません。だてに何年も一緒にいるわけではなく、日常会話からして、表現していない意図まで汲み取ってくれるのが妻です。なので、記事の文章に不足があったとしても、高精度でわたしの言わんとする部分を補完して、文意を正しく読んでくれている可能性があります。


 一時期、高頻度で記事にコメントを書いて下さった方がいます。この方のコメントを読む限り、わたしの言いたいことは齟齬なく伝わっているようでした。しかし、コメントを書いて下さるほどに熱心な読者なわけですから、読みづらい部分も解読して下さっていたのかもしれません。


 「いいね」を押してくださる方々の存在もあります。こちらは何について「いいね」と思っていただけているのかが不明なため、もしかしたら「書いていないこと」を読み取っての「いいね」なのかもしれません。


 総合すると、おおむね「読みづらいけどがんばって読んでくれているかもしれない」か「書いていないことを読み取ってしまうほど読みづらかった」の2通りに分かれます。「読みやすい」は存在しません。かなしい。




 思い起こせば、わたしの書いたものは母にも弟にも不評でした。文句をつけられたのが地味にショックでした。
 高校の頃に、わたしの文章を支持してくれた先生も「これが彼の『味』なんです」という評でした。あるいは、誰が書いたか明かさないままに読み上げられた文を聞いて「アレ書いたの○○くんでしょ」と言い当てる同級生もいました。
 つまりは、上手だったり綺麗だったりする「よい文章」ではなく、クセがあり個性の滲み出る「独特な文章」ということなのでしょう。仕事として求められるのは「よい文章」であって「独特な文章」ではありません。蓼食う虫も好き好きと申しますが、基本的には、わざわざゲテモノにお金を払おうという人は少数派です。



 結局、読みづらいか否かはわかりませんが、少なくとも、良くも悪くも独特なものではあるようです。そりゃあ、誤読もされるというものです。きちんと読めるものを書けるようにならないといけません。
 ……連日、ひとつずつ自己覚知が進むごとに気分が沈みますね。

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