おはようございます。平成生まれ、平成育ちの典藻キロクです。
俺たちの平成って醜くないか?
先日(1ヶ月以内)、実家に帰った際にテレビ番組を視聴する機会がありました。普段はテレビを見る時間も無いので、よい気分転換になりました。
ちょうど生放送でお笑いの日とかなんとかの番組がやっていました。
若手? の芸人がよその芸人1人を指名してメンバーに加え、いつもち違うネタをやってみるという企画だったようで、まあまあ楽しく視聴できました。
数組のネタ披露があったわけですが、最終3組には強く平成を感じました。
そう。ここで今回のタイトルの平成の話題になります。
「デッカーチャンダヨ」
「ですよ。」「デッカチャン」「アクセルホッパー」「エンタの神様」を知っているかどうかで面白さが極端に変わるネタが続いていました。
非常に懐かしいと感じましたが、今でも流行っているのでしょうか。典藻は流行りに疎いのでまったく把握していません。
しかしまあ、まさしくHEISEIの残滓、残党、或いは残穢。平成は既に終わったんだよ。いつまで縋り続けるんだ。と、思う心と懐かしき平成がいつまでも輝いてほしいという心が存在しています。典藻も平成人ですのでね。
ところで、令和も5年になろうというのに平成を生きた人にしか刺さらないネタをやるのはどうなんでしょうか。
万人にウケるネタは無いとはいえ、自分たちだけが面白い言わば身内ノリのようなネタを作るというのが「お笑いの日」と銘打ってのお祭りでやることなのでしょうか。
いや、文句のようになってしまっていますが、典藻はまあ楽しめましたので良いのですけどね。
そしてなにより最後の組のわけのわからなさ。あれは中々みられるものではありませんね。
典藻は普段、自分に理解できない物をなんでもかんでも「ボーボボ」と称する連中を嫌っています。思考放棄かつ語彙の貧困さが露呈していて見苦しく思っているのですが、しかし、あのコント? は「ボーボボ」の因子を持つサムシングだったと思います。ネタを書いた人はハジケリストかもしれない。
展開のひとつひとつが意味不明なのに、大筋では話がまとまっているという不思議な感覚。ボーボボやヘボットやこれらに類する数限られた作品からしか得られない感覚。
身内ネタよりも更に受け入れられる相手が限られる独善的な笑い。そしてそれに巻き込まれるゲストの方々。思い切りがよくて、かえって気持ちのよいものでした。
にしても「ボーボボ」も平成文化ですね。まあ、平成を生きた人がネタを書けば平成成分も濃くなりましょう。
個人的には好きな部類ですよ。少なくとも頭が固くなってしまった自分には書けない物語ですので、純粋に尊敬、羨望、嫉妬の感情を持ってしまいます。
それまでのネタが面白くてもつまらなくても、最後のコント? で印象を上書きしてリセットできるので、良い構成だったと思います。
いつもながらグダグダと文を連ねましたが、何にせよ、人を笑わせられるのは才能です。わたしも人に指さされ笑われた経験はあれど、「笑われるのと笑わせるのでは天と地ほどの差がある」とゴンちゃんも言っていましたし、せめて人から嗤われない生き方をしたいものですね。わたしには無理そうですが。
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