おはようございます。路傍の殺生石、典藻キロクです。
推し活について触れた前回の記事の公開後に改めて感じたことがありましたので、今回は補遺という形の記事にしようかと思います。
ほんの短い文章になるので、項目分けもせずに淡々と。
また、文中における「推し」とは前回に同じく、主にヴァーチャルな配信者を対象にしたものと捉えてください。
まず、前回のあらすじです。
長々と書いた後に結論として、推し活とは命を削って臨む「推死活」であり、かつ典藻キロクが健全なファン活動に臨むのであれば「コメントは控え目に。本当に偶にでも相手に時間をとらせるという迷惑を自覚する」ということと「認知してもらおうなどというのはおこがましい。黙って金を出せ」という姿勢であるべきとまとめました。
詳しくは当該記事をご参照ください。
そんな結論を得ていたにも関わらず、舌の根の乾かぬうちにThe one of 推しの配信にてコメントを残して反応をもらうなどという出過ぎた真似をしました。
自制も自省もできないのなら、そろそろ辞世の句でも用意すべきでは。
しかし、やはり反応をもらえるというのは非常に嬉しいものです。本当に。
web俗語的な言い回しをするなら、自分のコメントに推しが反応してくれることでしか得られない栄養素があるといったところでしょう。
自分の行動に対して、喜楽のようなポジティブな感情を返してもらえると、まるで自分の人生に意味があるかのような錯覚を得られます。
おそらくこの錯覚からくる歓びは中毒性のあるものです。そして、それを得ることを繰り返すほどに、より強く大きな歓びを求めて他のファンよりも目立とうとしたり推しへの「貢ぎもの」が増えていったりするのではないでしょうか。
これは相手を喜ばせる為でなく、自分が悦に入るための行いです。「相手の為」という名分をかざすことなく「我欲の為」であることを自覚しなければならないことです。
しかし、それそのものが邪悪なわけではありません。
もとより、応援などいうのは「相手の為に何かをしたい」という我欲から始まるものです。始まりは同じ欲。問題はそれがどのような形になって相手に伝わるかです。それによって応援された側が活力を得ることもあれば、不快や恐怖を感じることもありましょう。
これは私見ですが、と前置きをしまして。
人が人に好意を持つのは自由であっても、その気持ちを表出する際には特段に気を遣わなければならないものだと思います。好意を向けられることそのものやその表現方法が相手の迷惑になることもあるのだと、肝に銘じておくべきなのです。
決して消えないわたしの過ちをひとつ晒して例に挙げましょう。
学生時代。初恋の人に告白をして振られた翌日のこと。
「特別な関係にはなれないけど友人としての付き合いならば続けてもよい」という言葉を真に受け、「友人として、ただなにげない話がしたい」という我欲の為に、彼女が登校してくるのを構内で待つという行動を選択してしまいました。
わたしの意図するところはどうあれ、彼女にとっては「待ち伏せ」「ストーカー行為」でした。どのような弁明も意味はありません。起こした行動に対して相手がどう感じたかが最重要なのですから。
わたしに「そんなつもりはなかった」というのが事実である一方で、彼女が「ストーキングを受けた」ということもまた事実として両立することなのです。
これに端を発した諸々により、わたしは当該コミュニティに属していたすべての人間と疎遠になる形と相成りました。好意を向けた相手に恐怖を与えてしまったことも、人間関係をまとめて滅茶苦茶にしてしまったことも、10年以上経った今でも、文字通りに寝ても覚めても頭から離れない罪悪感として残り続けています。
好意の表現といえば聞こえはよくとも、結局は自分の欲を満たすための行い。エゴの末路。自他の心の動きとそのバランスを測れないのなら、他人と関わるべきではないと強く強く学んだ出来事でした。
(妻との馴れ初めが上記トラブルに無関係なものではないので、わたし個人の視点でいえば決して悲しいだけの出来事ではありませんでした。『ストーキング』で他人を害しておいて自分だけ幸せになろうなんて、邪悪そのものではありますが。)
上記の例を踏まえまして、所詮、典藻キロクはストーカーです。
結局、誰から許されるわけでもありませんでしたし、指摘され翻って見れば間違いなく不適切な振る舞いだったわけですから、この先もずっと死ぬまでも死んでからも終身不名誉ストーカーです。
そんな者が「応援」などとは笑いの種にもなりません。対象からすれば恐怖や嫌悪の感情がわくものでしょう。
ましてや「推しに認知してもらいたいからコメントを送る」なんて、結局当時からなにも変わらない悪しき振る舞いです。自分の感情の押し付けです。
しかしそれを自覚していても、パトロンごっこは続くでしょうし、コメントだって辞めないでしょう。自制も自省もないからこそのストーカーですから。
人の世の役に立つ優れた何かを持つわけでもなく、悪性の矯正にも至らぬストーカー気質のヒトモドキ。
まさしく社会不適合者。本来なら幸せを望む資格も、そもそも他人と関わる資格もないような存在。
何者にも成れない、何を残すこともない半端者。
せめてこのわたしを燃料・養分・礎にして、推しが大成してくれるのなら、なんにも為せない虚ろな典藻キロクの人生にも意味があったと勘違いできるかもしれません。
典藻キロクは悪性のヒトモドキなれば、「好意を向けること」そのものが礼を失する行為なのです。
ならば、それすらもが中途半端になることのないよう、「推す」のならばそれは人生を対価にするつもり、命を削るつもりで為すべきことです。
そこまでしてようやく、マイナス100がマイナス99ぐらいになるのです。どうあっても「普通のファン」のようなプラスの応援にはならずとも、少しでも人並みには近づきたい。応援の気持ちを「ちゃんとした形」で出力したい。
故にこそやはり、推し活とは「推死活」と見つけたり。です。
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