怒りを言葉にする記事

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冒頭文

 レオは怒りに燃えてる。わたしも怒りに燃えている。怒り爆発サムライマン。
 怒りを抱いても仕方ない、そうと知りつつ、わかりつつ。数日経ても飲み込めないので、ならばならばと書き残しましょう。

 怒りの感情を消化しませんと、怒ったその時に心が留まってしまいます。怒りは碇です。碇を引き上げる為に、感情を消化し文章に昇華させる為に、書いて気持ちを整理しましょう。
 何についての話かという説明は省きます。ろくに閲覧数のない個人ブログですから、今回は普段以上にただの独り言ということで。
 

アドバイスや的外れな感想は押し付けるものではない

 わたしは他人の作品に対しての感想を述べることを好みます。
 面白いものはどこを魅力的に感じたのか、面白くないものには何が合わなかったのか、というのを考えて感想として出力します。

 これはあくまで感想です。作品や作者に対するアドバイスなどというものではありません。
 わたしなりの考えを込めて書いた/描いたものについて、その考えを知ってか知らずか、頼んでもいないのに「もっとこうした方がよい」と言われると感情がささくれ立ちます。仕事に対して、上司や取引先から修正点を指摘されるのなら受け入れます。しかし、趣味かつ批評を求めていないものについて、アドバイスを押し付けられるのは、ああ何とも気持ちが苛立ちます。
 なので、アドバイスという体裁で、自身の意見や理想や「正しさ」といったものを押し付けて、相手を操作しようとする人間の心理というものには寄り添えません。


 的外れな感想を相手に直接伝えるというのもまた、行儀の悪いことのように思います。
 自身を棚上げにしているように見えるかもしれませんが、いえ、よく考えて頂きたいです。映画の感想、本の感想、絵の感想を、制作者に対して直接「これはこういう意図で作ったんですよね? そうですよね? ね?」と押しかけて圧をかけるようなことはしていません。創作物全般に対しての振る舞いが「厄介オタク」に両足を突っ込んでいる自覚があるからこそ、意識的に避けています。


 求められていないアドバイスや的外れの感想を、「あなたの為を思って」という枕詞と共に押し付けるのを見るのは、とても非常に極めてベリー不快です。平易な表現をするのなら、ムカつきます。

ある程度はどんなアバターでも許容されるべき

 さて、ようやく本題に入ります。レオはそこまで来ている、レオは怒りに燃えてる。

 どうしてアバターのデザインに他人がとやかく口出しをするのか。
 どんな職業の服であっても、その姿を羽織ることに何の罪がありましょうか。医師や弁護士を騙ったわけでもありません。意匠に取り込んではいても、それそのものではないのに、なんの文句があるというでしょうか。

 わたしで例えるのなら、まったく忍ばない精神性なのに「忍者(の意匠を取り込んだ)デザインのアバター」を纏うのはおかしいと言われるようなものです。
 別によいじゃないですか。忍者じゃなくても忍者の格好したって。いや「典藻キロク」のアバターが忍者然としているかということは、さておきです。
 わたし本体がホモサピエンスであるにもかかわらず、この……なんだこの、まあなんでもよいです。この謎生物の姿で活動しているというのが、そもそもよくないということですか。

 では、世に溢れるヴァーチャル活動者のほとんどが許されないのではないでしょうか。
 バ美肉おじさんは当然、リアルでは美少女ではないでしょう。それだけではありません。女子高生(女子高生ではない)がどれだけいることか。人外のアバターを着た人間がどれだけいることか。
 現実にはケモノ耳の美少女などいませんし、魔族といった種族の存在もいないのです。
 こういったフィクションのガワを着こむことが許容されているのなら、騙ることが許されない職業以外のモチーフならば、広くフィクションと捉えて許容されて然るべきでしょう。



 或いは、モチーフのイメージと本人の人格に乖離があるとでも言いたいのでしょうか。
 モチーフのイメージというのは、職業等の要素に対する偏見に他ならないです。この職業についている人間は、すべてこのような性格傾向にある。……などとは、まさか言いますまいに。自身の見識の狭さをひけらかして何がしたいのですか。テメェのモノサシで他人を測るな。

名づけに対して軽々に口出しをするな

 口出しすべきことは外見に限った話ではありません。ひと様の名前にも、あまりテキトーなことを言いやがらないで頂きたいところです。


 わたしは妻と話す際、彼女の通り名(世間的にはペンネームのようなもの)で呼びます。昔から今に至るまでずっとそうです。
 その名前が、あるアニメのキャラクターのそれと部分的に共通するもの故に、妻は「○○からとった名前?」と訊かれることが多かったそうです。これを聞いてどれだけ腹の立ったことか。


 ひと様があれこれと思いを巡らせ、様々な祈りや由来を込めて付けた名前に対して、既存の作品のキャラクターを真似た名前かと問うなどと言う侮辱。
 名付けも、ある種の「創作」のひとつでしょう。他人の創作物に対して、「○○を真似したの?」などと尋ねることがどれだけ無礼なことか、わからないのでしょうか。


 なんだお前、ひょっとすると、他人の漫画や小説を見て、すぐに「○○のパクリ」と言い捨てる類の人種か。何事かの表現をしようとする人間が、自分の大切な創作において、安易に他人の真似をするとでも思っているのか。


 ヴァーチャルな配信者になろうとする人間が、名のある同業者の名前をとって、自身に名づけを行うわけがないでしょうに。
 ああ、思い出すだけでも腹が立つ。
 

他の人がやっているからといって真似をする必要はない

 他人の真似をする義務というものはありません。「みんながやっているから、あなたもそうするべき」というのは押し付け以外の何物でもありません。と、言いますか、誰もがやっていることを真似て自ら没個性になることもないでしょう。

 こういう活動をしているのなら、○○をすべきという理想や信念があるのなら、その思いは自身で遂げればよいのです。他人を操作しようとせず、自分自身が活動者になって、思う通りの完璧を目指せばよいのです。簡単に他人に口出しをするのですから、できるでしょう?

 わたしだって、わたしのやりたいように活動します。仕事ではなく趣味なのですから。
 お金をもらっているわけでもない相手から、「こういう記事を書いた方がいいよ!」などと言われたところで聞く耳を持ちません。他人を動かしたいのなら、動くだけのメリットを提示してください。ひとを操り人形にしたいというのなら、相応の対価を払うべきです。当たり前のことですね。


 活動者がグッズを出すのも出さないのも、当人の自由でしょう。
 クオリティや題材へのこだわりがあります。グッズ生産の為の予算の都合もあります。ほかの人がやっているからといって、誰もが軽い気持ちで作るようなものではないでしょう。
 当人に向かって「グッズ出さないの? 出たら買うよ!」などと声をかけるのは、相手の事情も考慮せずにただ「応援している」という独善的なポーズです。本当にグッズを渇望するオタクたちは、公式からの供給がなければ自分で作るのです。今はよき時代です。100円ショップにもグッズ自作の為の材料が売っています。欲しければいくらでも作れるのです。
 言うは易し、です。応援するというのなら、薄っぺらな言葉だけでなく、相手の事情を考えて、相手のために出来ることを考えて、行動で示すものでしょう。甘言を弄して、口先だけで他人を思い通りに動かそうとする人間が「応援」などと口にするな。


 活動者はこうすべきという固定観念があるのなら、自身が体現すればよいでしょう。他人の人生は、お前のお人形遊びの玩具じゃないんだよ。

おわりに

 怒りを言葉に表せて、多少は気持ちが落ち着きました。
 ここ最近はトラウマ克服のために悲しさを掘り起こしているので、別の方向性の感情を強く感じられたのは、まあよかったのかもしれません。

 怒りや恨みは強い感情ですから、心身を走らせる為の燃料としては悪くないものです。ええ、もちろん、明るく前向きな気持ちで動けるのなら、それが一番よいと思います。
 ですが、悲しみや自罰感情に囚われて動けなくなるぐらいなら、怒りや復讐心を燃やして動く方がマシでないかとも考えます。燃えていて、熱を持つのなら、これも「心がポカポカする」というものでしょう。
 記事冒頭にて、怒りは碇になると表現しましたが、その碇を引き上げてしまえば、しばらくの航行に耐えうるだけの燃料になりましょう。


 自分のことを悪く言われるのは、それなりに「いつものこと」なので、傷つきはしますがこれほど強く怒ることはしません。
 がんばっている他人に向かって好き勝手言う様子は、いつだって腹の立つものです。わたしが「がんばらない」怠け者の性分だからこそ、自分が出来ない「がんばりという輝き」に向かって「身勝手な理想」を押し付けることに激しく怒ります。
 わたしの人生がわたしのものであるように、他人の人生は他人のものです。自他・彼我は別の人格であるのです。他人の人生をどうこうしようと言うのなら、身命を賭すだけの覚悟をすべきです。

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