「世間話」で返答に窮する
「子供はいるの?」
「まだなんだ。楽しみだね」
「がんばらないとね」
このような話題になると、いつも答えに窮して愛想笑いで済ませます。不快に感じるというほどではありません。
わたしは、我が子を望みません。
ですが、世間的には、特にわたしが仕事で関わる世代の方々にとれば、夫婦は子を成すことが当然なのです。相互不理解です。常識の違い、時代の違い、文化の違いといった要素もありますが、わたしの方が「ふつう」ではないというところが一番大きいです。
仕事中においては、元来の人間嫌いの上に薄皮一枚の「役割」を羽織って臨むわたしですので、相手方もまさか目の前にいるヒトがヒトモドキとは思いもしないでしょう。意識して、そう見えないように努めているのですから。
であれば、ごく当たり前の「ふつう」として、「夫婦の間に子供が生まれることを望んでいる」という前提で話題が振られるわけです。
人によっては、子の有無やそれに関する話題について、デリカシーなく気軽に振られることをハラスメントと捉えるのでしょうか。
なんでもかんでもハラスメントと呼ぶ昨今にあって、話題の発信側にハラスメントの意識がなく、受け手であるわたし側も理屈で「不快の思う程のことではない」と納得しているので、これをハラスメントと呼ぶべきではないと考えます。ただの「世間の風あたり」です。それも随分やさしいそよ風程度の風あたりです。
……しかし、面倒くさい性格をしているわたしですので、類する話題で不満に思うこともあります。
結婚しているというだけで、あるいは交際しているというだけでも、「肌を重ねる」ことが生活の中に当たり前にあると扱われる世間の常識が不満です。
いえ、こちらも理由はわかりますし、納得もしています。
種の存続、社会の継続の為には番ったからには子を残すべきですから、生物として、あるいは文明の構成員としては、子を望まないという方が不自然なのです。ですから、生物としてのヒトである以上は子孫を残す=その為の営みが行われているとすることは当然といえます。
ですが、わたしは子を望みません。
精神面にてヒトにあらざればこそ、ヒトの親になるべくもなく。父性を知らざれば、父になるべくもなく。わたしの子として育つのならば、それは生きづらいヒトモドキの再生産にしかならないでしょう。気質的な遺伝や環境要因にも不安要素が多いです。
あるいは、仮にヒトとして育つとして、わたしはきっとそれを許せません。自分と同じ血が流れているのに「ふつう」になるだなんて許せません。ずるい。そうなれば、悪感情を突き詰めて、いずれ悲劇に至りましょう。
ヒトとして育ち、わたしが悪感情を制御できたとして、彼/彼女には「お前の父親は終身不名誉ストーカーである」という返上できない先天的汚名がつきまといます。あまりに不憫です。親の罪を子が負う必要はないはずですが、そういった理屈を無視して「自分たちと違う」という理由だけで面白半分に他人を傷つける人種が存在していることはよく知っています。
そのほかにも理由はありますが、とにかくわたしは子を持つことを望みません。
まあ、そういう具合にわたしなりの事情があるわけで、ただ仕事で関わるだけの相手から「子供は?」と訊かれるのは、やはり答えに窮します。同じく「ご両親はお元気?」というのも、なんとも答えづらい。愛想笑い以外に、どう返せばよいのでしょうか。
まるで天気の話でもするかのように、気軽に答えづらい話題を振るのはやめていただきたいですね。
不快な言葉や失礼な言葉
子について問われることは不快には感じませんが、気まずいです。
その気まずさを超えて、言われて嫌な言葉というのも、まあそれなりにあります。
なんでもかんでも○○ハラスメントと呼んで騒ぎ立てる時代にあって、相手が男性だから……もっと言えば、相手がわたしだからハラスメントにならないと思っているらしい言葉を向けられます。
久しぶりに会った相手から「太った?」と訊かれることがあります。
実際の増減はどうあれ、体型に言及されることは昔からずっっっっっっっっっっっっっっっっっっと嫌なことです。女性に言えば即時セクハラ扱いになるだろう言葉ですのに、わたしには向けてもよいと思われているようです。別記事でも書きましたが、ひとより太っているというのは、それだけで「いじってよい」とされる風潮があります。自分と違うものは、自分と同じ人格ある生き物として扱わなくてよいという風潮です。反吐がでますね。……これ以上は、わたしらしからぬ悪口雑言が出てしまいそうなので、この辺りで切り上げます。
同じく、久しぶりに会った相手から「相変わらず顔色悪いね!」などと言われたこともあります。まあ、さほど不快ではありませんが、失礼な話ではあります。
居合わせた方から「○○くん、ちゃんと怒った方がいいよ」と促されましたが、仮にも取引先の相手に怒るなどできません。いちサラリーマンですから。その場では「いえいえ、わたしの体調を気にかけての言葉ですから、むしろありがとうございます!」と返して「なるほど、人間出来てるなあ」と言って頂けましたが、まあ、礼を失する物言いではあります。
しょっちゅう立ち眩みを起こしたり、一時的な貧血症状の出ることが多い身なので、実際に顔色がよくはないのだとは思いますが……。これも、他人の顔についてアレコレ言うという点で、相手が違えばハラスメントになるものと思います。
プロ意識なんて無い「いじり」
子どもの頃からのことで比較的慣れていた「太っている」いじりだったり、実際に体調が悪い「顔色の悪さ」であったりは、嫌だったり失礼だと感じたりはしますけど、まあよいです。
しかし、慮外のタイミングでぶつけてくる「いじり」は、段違いに不快です。
フォトウェディングの際、メークをして頂いているときに「あれ? ちゃんとヒゲ剃ってきました?」と笑いながら言われたのが衝撃でした。
打ち合わせを重ねて迎えた「ハレの日」です。決して安くないお金を払って臨む撮影です。ヒゲを剃ってこないわけがないでしょう。そんなこと、わかるでしょう。わかった上での「いじり」ですか。
わたしにとって、太っていることと並ぶぐらいにコンプレックスなのが「ヒゲの濃さ」です。念入りに剃ったとしても、僅かな青ひげが残ります。それが隠れるよう、自分で化粧をして行けばよかったのですか。では、メークを担当するあなたの仕事とは何ですか。あなたの仕事は、わざわざ人をバカにして笑うようなことをしないと成立しないものなのですか。
これだって、女性相手にメークや着付けをしながら「体毛が濃いですね」なんて笑えば、クレームものでしょう。相手が男性だから、言ってもよいと考えているのでしょうか。
理想の姿が「お人形のような美少女」である以上、その理想が叶うことはないとわかっています。しかし、それはそれとして、その理想の姿に反する属性を嬉々として「いじり」の対象にされるのは、とても腹の立つ話ですし、怒りが通り過ぎれば悲しさが残ります。「太っている」というのは、ある種自業自得の結果ですので、指摘されれば返す言葉はありません。
ですが、「ヒゲの濃さ」というのは別の話です。エネルギーを消費すればやせ細る身体とは違います。体を鍛えれば体毛が薄くなるというわけではないでしょう。サイタマ先生じゃあるまいし。
青ひげが残らないように、深々と刃を食い込ませて肉ごと抉り剃って、そうして血まみれの顔で行けばよかったのでしょうか。答えて頂きたいですね。
こればかりは、いつものようにルドガーに答えを求めることはしません。明確に相手がいる怒りをぶつけるのは、ルドガーが不憫です。
プロ意識のカケラもない言葉ですが、相手が男性なら許されるとでも思っているのでしょう。そうでなければ、口にはしますまい。
悪気がなければ許される
世の中、法に触れなければ「悪気はなかった」でなあなあにされることは多いでしょう。
そして、世間話としてデリカシーに欠ける話題を振ったり、相手の身体的特徴を笑うことは「悪気のない」ことです。
傷つけようというのが主目的でなく、その場で当たり障りなく会話をすることが目的でしょうから。言っている側からすれば、結婚しているヒトに子供の有無を聞くことは「ふつう」ですし、デブにデブと言うのは「ふつう」のことです。
相手をいびろうとするのなら、もっと情けなくみっともなく身も蓋もない言葉になるでしょう。あれらは、ひょっとしたら「いじり」とすら思わずに、自分基準の気軽なトークテーマ、楽しいジョークとして、相手のやわらかい部分を土足で踏み荒らすのです。
悪意は無自覚なもので、有無は言う側の自己申告、仮に悪意が込められていたとして、そして言われた側がどう感じようと、法の範囲内なら許されます。学校なんかでは特にそうですよね。
わたし相手ならハラスメントではない
そういうわけですから、なんでもかんでもハラスメントと呼ばれる時代にあって、向ける相手によってはハラスメント的な言行も許されるわけです。
「冷たい」と他人から言われるわたしです。間接的に「人の心がない」と認識されているわたしです。表情や声の抑揚に乏しいからと、心というものがひとより欠けていると他人に見られているわたしです。
心が足りないのですから、なにを言っても響かないとでも思われているのでしょう。たぶん、昔からずっと。
別記事に書いた職場のアレコレの中で「○○さんが出来るからといって、誰でもが出来ると思わないでください」と言われました。あちらの味方についた方も、同じことを言っていました。
なるほど。正論ではあります。わたしが出来ることだからといって、他人が出来ないこともあるのでしょう。納得しましょう。
しかし、その逆は認められませんでした。相手方が出来る「『あたたかみ』を持って話す」ことが、わたしには出来ないわけですが、その理屈は通りませんでした。多数派が当たり前にできることは、少数派にも当たり前にこなすように求められます。
意訳ですが「人間社会で生きるのだから、ちゃんと『人間』であろうとする努力をしてもらわないと困る」とも言われました。
現状に至るまでの懊悩や、試行錯誤で身につけてきた処世術、それらすべてを否定する言葉です。わたしがただ自然体で気ままに生きているとでも言いたげでした。違います。30年余を過ごして、人間関係というものがわからず「被害者」にも「加害者」にもなって、ようやくたどり着いた場所にあってなお「冷たい」のです。
相手の経緯や歴史を否定するような言葉をわたしが吐いたのなら、それはやはり「冷たい」「人の心がない」と言われることになるのでしょう。
それが、わたし相手ならば当然のように向けられます。
対象がわたしである場合においては「冷たい」「人の心がない」物言いも正義の言葉になるのです。上の立場から人格否定を行おうとも、ハラスメントにはならないのです。
人間なんてそんなもの
まあ、結局いつもどおりの落としどころですが、人間は相互不理解の生き物ということです。
デリカシーのない子どもの有無の話でも、身体的特徴の揶揄でも、それを言われて相手がどう感じるかに想像力が及ばないのが人間です。相手の内心を慮ることもせず、自己の基準で気軽に傷つけるのが人間です。どうあっても自分の視点からしか物事を捉えられない以上、真に相手の視点に立つことなどできません。わかりあうことなどできません。
わたしもあなたを傷つける。あなたもわたしを傷つける。気を付けていたって傷つけるし、そもそも気を付けることをしないことすらある。それが当たり前です。
その当たり前が蔓延する現実において「自分はこれを悪意ある言葉と思わないから許される」とか「自分は正義の側だからお前を傷つけてもよい」とか、根拠の不明な錦の御旗を掲げる人種がいるわけです。
人間なんてそんなもの、と思っておくのが吉です。
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