スポーツマンシップという信用ならないもの

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 健全な精神は健全な肉体に宿る、という言葉はいまいち説得力に欠けるものだと思います。ええ、肉体が健康・元気であるのなら、精神を病みづらいということであるのなら、まあわかります。わかりますが、納得はしがたいです。

 スポーツマンであるのなら、それも属しているのが大きな大会へ進出する程の実力を持つチームであるのなら、その肉体はきっと健全なものだったのでしょう。
 一方で、その精神が健全であったかというと、首をかしげてしまいます。

 いえいえ、わかります。皆までおっしゃらずとも、わかります。
 不健全わたしを弄ぶのなら、嘲るのなら、きっとその立ち位置は対極にあるもので、つまりは健全であるということでしょう。理屈はわかります。わたしが健全でも清浄でも正義でもないこともわかります。
 なので、はい。
 彼らが健全な精神の持ち主であったということについては、首をかしげはするものの理屈の上では認めざるを得ません。


 ただ、健全ではあっても、スポーツマンシップなどというものが幻想であることは体現していました。
 正々堂々、などと。
 とても言えませんよね。


 当時のわたしは……いえ一人称がありませんでしたので「 」は、と申しましょう。当時の「 」が多勢に無勢で虚勢を張らなければならなかったのは、多勢のときにしか攻めなかった彼らのやり方があってこそのことです。多勢に無勢なのは彼らに限らず、彼女ら相手の場合もそうでしたが、今回の焦点はスポーツマンシップなどという幻想を掲げる彼らの話です。
 「団結力」と「複数人でいるときだけ気が大きくなる」を履き違えているものと推察します。「 」を悩ませた連中はいつも3人以上でした。1~2人でいる時は何をしてもこないのです。何も言ってもこないのです。散々馬鹿にした「 」が相手なのだから、反抗されるなどと考えているわけでもないでしょうに。
 3人以上の団体になったときこそ、彼らの「団結力」が発揮され、たったひとりぼっちの「 」を嗤ったのです。あれが彼らがスポーツで培ったチームワーク、とやらなのでしょう。団結・結束の尊さは理解します。ひとりではなにも出来ない惨めさから目を背けて、ふたりでは責任を誤魔化せないから目を逸らして、3人なら何でもできると気が大きくなる。人間の団結力、素晴らしいですね。拍手を贈りたい気持ちです。


 でも、それは正々堂々とはいえません。わたしひとりを相手に、「 」ひとりを相手に、3人がかりはアンフェアですね。彼らは、健全な肉体に健全な精神を宿し、日々切磋琢磨する中で持ち得るはずのスポーツマンシップとやらが言葉だけの形骸であると示してくれました。
 彼らが成果を上げていないのなら、それは道理が通る話なのですが、ああ無情なことに彼らのそれは好成績でした。



 「 」を嘲り嗤おうとも、そんなことは些事なのです。だって、健全な精神をもつ彼らに比べれば、「 」が劣等なのですから。
 授業中に喚いて進行を妨害しようとも、そんなことは些事なのです。だって、ひとクラスの授業の進行度よりも、学校全体を上げて祝う程の戦績の方が上等なのですから。


 
 他人を傷つけないように、だとか。
 他人に迷惑をかけないように、だとか。
 そういったものは無駄なのですよ。他人の気持ちを想像しもせず好き勝手に振舞ったとしても、成果さえ出せば英雄扱いなのです。静けさや穏やかさを求めて過ごしたところで、「健全な精神」と「スポーツマンシップ」に踏みつけられるだけです。無情ですね。とても。


 甲子園といえば、わたしだって知っています。当然、当時の「 」だって知っています。
 そこで戦うのなら、それだけの実力があったのでしょうし、学校全体を上げて祝おう、応援しようというのもわかります。やや意味合いは異なりますが、「勝てば官軍」です。


 彼らの掲げたスポーツマンシップという妄言……いえ妄幻。わたしは露ほども信じません。どんなに輝かしい存在であったとしても、その活躍と併行して、誰かや何かを踏みにじっていたっておかしくないと、彼らが教えてくれました。
 「他人の痛みがわからない」ということではないのでしょう。なぜなら、彼らにとって我らは他”人”ではないのです。対象が人でないのなら、彼らが何を気にすることもありますまい。想像するに「他”人”の痛みはわかるけれど、”人”でないものに痛みなどありはしない」という理屈でしょう。
 だって、あんなに楽しげに嗤っていたのです。よいですね笑顔は素敵ですね尊いですね幸せですね。わたしは今でも憎らしく思っていますけど。



 まとまらない話を無理にまとめるのなら、わたしは今でもスポーツマンが信用ならないということです。職場ですら人間嫌いを公言して憚らないわたしが、とりわけ悪印象を持っているのがスポーツマンだという話です。その活躍の裏で、その栄華の陰で、誰を/何を踏み拉いているかわかりません。何故なら、彼らの放つ輝きが強ければ、涙する者が潜む陰など些事になると、母校が教えてくれたからです。
 ……ひとつフォローをいれるとすれば、武道の部活に所属していた方々は当時の「 」を害さなかったですね。スポーツと武道は礼節におく重きが違うのでしょう。

 
 母校は教えてくれました。スポーツマンシップは信用ならないことを。そして、武道に身を置く者、正しきオタク、優しいヤンキー、光のギャルは信用できるということを。

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