笑いのセンスの合う/合わない

その他





 わざわざ言葉にするまでもない程に当たり前のことなのですが、笑いのセンスが合うか否かというのは、対人コミュニケーションの快不快において、非常に大きな要素です。センスというのは個々人に差の大きいもので、それが真逆の方向に向くのなら、気が合うということは到底ありえないでしょう。

 「本人は面白いと思っていること」を見せられた時に、それがくすりとも笑えないものであると、とても冷めた気持ちになります。普段コミュニケーションをとる妻との間に齟齬を感じることがないもので、すっかり失念していました。
 極端な例えですが、令和に適さない対人観で女性事務員へのセクハラを「面白いジョーク」として披露した上司を見た時の気持ちです。いえ、わたしが「体型いじり」に対して過敏なのは認めますが、それがジョークとしては下の下で、なにひとつ笑えない事には共感いただけるかと思います。

 どうして急にこんな話をしているのかといえば、先だってたまたまYoutubeにオススメされたアイドル? のショート動画がきっかけです。視聴した際、上記のような冷めた気持ちになりまして、わたしの笑いのセンスに絶望的に合わないのを感じました。
 動画の詳細は省きますが、「最後にオチがあるよ!」というようなタイトルのわりに、まあつまらないものでした。顔を変に歪ませたり、奇声をあげたり、めちゃくちゃな身振りで暴れたりというのは、ジョークやギャグ、ユーモアというよりは、乳幼児をあやす際の振る舞いに近い気がします。知性・理性が未発達な子を笑わせる為のものを、オトナの目線で「面白い」とは感じられません。
 いえ、まあ、言語を介さない「ギャグ」なので、ワールドワイドではあるのかもしれません。

 当該動画のアイドル当人が、あれを本気で面白いものとして思っているのなら、彼女が提供するコンテンツはわたしには合わないものなのでしょう。性別の違いによるものか、年齢の差によるものか、あるいはそもそもの話としての個人差でしょうか。

 ツイッターでたまに見かける「○○すぎて今これ」という画像付きの呟きも、わたしには何が面白いのかわかりません。直前にどんなに面白いものを見ていても、一瞬で白けます。クラッシュタウンにおいてすら、きっと刹那に真顔になるでしょう。
 いつどこで発祥したものか知りませんが、他人の作った定型文に頼るあたりが面白みを大きく欠いているように思います。もしかしたら、この定型を使いこなしている「今これ」は面白いのかもしれませんが、出会ったことはありません。一度でよいので、あれを面白いものとして扱っている方に、どのような機序で笑えるものなのかをご教示いただきたいです。仕組みが分かれば、ジョークとして理解できるかもしれません。

 人間は相互不理解が基本形です。「いじめ」を「いじり」と呼んで娯楽化する人種を理解できないように、個々人が何を面白いと感じるかは、往々にして一致しないものです。

 その点において、妻と生活を共にする中で違和感を覚えたことがないというのは、センスに大きなすれ違いがないということでしょう。当たり前にそこにあるもので、気づきませんでしたが、これはある種の奇跡なのでは、と思う次第です。
 これに気づかせてくれたという意味で、あのショート動画は面白くはなくとも、タメになるものではあったのかもしれません。「全然面白くないコンテンツであっても、得るものはあった」という話でした。
 
 

コメント

タイトルとURLをコピーしました