ギャルゲの主人公に自分を重ねるか否か

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 主に若い男女の恋愛を題材にした「ギャルゲ」と呼ばれるジャンルのゲームを「人生の教科書」と呼んでいるわたしですが、「ギャルゲが好き」と言った時に誤解してほしくないことがいくつかあります。我が事ながら、変なこだわりを持つものだと呆れますが、いえいえ、こういうのは大事なことです。


 そのこだわりのひとつに「主人公に自分を重ねて読んでいる」という勘違いをしてほしくないというものがあります。恋愛モノを読んでいる時に、そのヒロインと自身との疑似恋愛を愉しんでいるわけではありません。
 そうです。わたしは、ギャルゲの主人公と自分を同一視する読み方をしていないのです。憧れる部分は大いにありますが、一方で同じになれるとは思いません。


 主人公は、あくまで物語の登場人物のひとりです。少なくともわたしにとっては、読者の分身ではありません。古のコピペにもあったように思います。ヒロインが好きなのは主人公であり、我々はそれを画面越しに見ているだけなのです。それはそうでしょう。「主人公」という、あれだけ素晴らしい人格に、わたしが追い付けるわけがないのです。
 誰かの心を救って、そうして自分も救われるというような、わたしには到底出来ないことをしているのが彼らです。義之くんにも、理樹くんにも、稟くんにも、まったく届く気がしません。それをどうして、彼らと自分を同一視できるでしょうか。


 ……という話が、どうにも通じない層がいるように思います。恋愛シミュレーションを嗜むような連中は、2次元の女の子との恋愛にニヤニヤしているのだと偏見を持っている方々がいます。たしかに、主人公とヒロインとの関係性にニヤニヤしているかもしれませんが、その中身は違うのです。理解してほしいとは言いませんが、勘違いを確信として持っていてほしくはないです。


 その他のジャンルであれば、必ずしも主人公と自身を同一視しないというのはわかるでしょうに、何故かギャルゲは「きもちわるいもの」として決めつけられる向きがあるように思います。自分をのび太だと思っているのか、アンパンマンだと思っているのか、あるいはルフィか悟空か……誰もが主人公に「なる」わけではないでしょう。
 これの延長として、「感情移入できないから」という理由で、作品ごと主人公を叩くのも好きではありません。


 まとまりのない話になりましたが、わたしがギャルゲに関して持っているこだわりのひとつについてでした。

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