憧れの英雄像
個人的な分類として「わたしの英雄」と呼ぶキャラクター像があります。
老若男女に愛され、全能でないからこそ自身の全霊を尽くし、困難を乗り越え、人々の心を救い、時には敵対する相手すら絆される。そんな魔性の英雄像です。
わたしが「こうなりたい」と思いながら、しかし、そのように憧れている時点でそうはなれないのだとわかってしまう、そんな人物像です。あまりに悲しいことですが。
表記上は「わたしの英雄」としていますが、元ネタに倣うのなら「わ゛た゛し゛の゛英゛雄゛」と濁らせて発音するのが正しい作法であるかもしれません。まあ、ブログという都合上、文字媒体での表現ですから濁音抜きで表記しましょう。使い方も元ネタの意味合いと少し異なりますし。
不動遊星だったり、武藤カズキだったり、黒崎一護だったり、杉崎鍵だったり、工藤タイキだったり、カタリナ・クラエスだったり……。わたしの英雄は、いずれも物語の主人公です。そんな主人公のような人間になりたかったのです。
誰しもが自身の人生の主人公であるとは言いますが、その人生が英雄譚であるとは限りません。主人公然とした主人公であるとも限りません。
人生を自分のものとして生きるだけでは、憧れる主人公にはなれません。
人間が背負える人生は1人分
通常、人間が背負える人生は1人分だと思うのです。
自分ひとりが生きるだけで精一杯です。自分をさしおいて、他人に優しくできるというのは、それだけでひとつの才能だと思います。
他人の人生に関わり、真摯さと懸命さを以て向き合い、敵対者を含めて老若男女から好かれるという人物像はこの「才能」に溢れているからこそ実現し得るものです。
仮に自身の「1人分」を投げ打ったとして、それで救えるのはやはり1人分でしかありません。
1人殺せば悪人で、100万人を殺せば英雄になるわけですが、ならば、1人救ったとして精々お人好し、100万人を救えないのなら英雄には成り得ません。
そして、わたしはわたしの「1人分」を意地汚く後生大事に抱えこんでしまっています。
たったの1人の、自分以外の誰かを救うこともできません。英雄には程遠いです。
100万人といわず、誰か1人でも救えるだけでも常人ならざる所業です。人間を救うために人間をやめているのかとすら思えます。いいえ、わたしの英雄(たち)は人間をやめてはいません。身体はどうあれ「人の心」を保っているので人間をやめているわけではありません。
人間のまま、人間以上を成し遂げなければ、英雄にはなれません。
憧れはしても目指しはしない
誤解なきように断っておきたいのですが、わたしはこれらの理想の英雄像に憧れてはいますが、その座に至ることを目指しているわけではありません。
名前を挙げたのがすべて創作・非実在の人物であり、愛される人物として描かれて、そうあるべくして愛されていることをわかっています。
余りに自身とかけ離れていて感情移入もできない完璧で究極の偶像であるのですから、その心をなぞって生きることはできません。
自分とは関係のない、どこかの誰かが英雄であったとして、自分もそこに辿り着けるなどというのは錯覚です。
自分ひとりの人生すら懸けられないのに、創作の人物に追いつけるとは思いません。
もしも、わたしが自身を指して、誰かを救える人物であるとでも思ってしまうのなら、それはとんでもない思い上がりの勘違いです。
誰もに愛される英雄だなんて、身分不相応の理想です。
誰かを救えるわけでもなく、誰もに愛されるわけもないのです。
わたしにできることがあるとするのなら、彼らの残した輝きの跡を辿って、少しでも自分ではない誰かの為により良く生きることぐらいでしょう。
そうすることができたのなら、もしかしたら、誰もに愛される英雄にはなれなくても、誰かに愛される小市民にはなれるかもしれません。
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