冒頭文
おはようございます。誰に認められずとも自分自身が認めていればそれでよいじゃない。典藻キロクです。
ここのところ、影響を受けたセリフの話をしていましたが、その中で「シャーマンキング」にて「コメディアンの一番のファンは自分自身であるべき」というようなセリフがあったのを思い出しまし
た。チョコラブがらみですね。
大変よい考え方です。これを拡大解釈しまして今回のあいさつ口上のとおり、「誰に認められずとも自分自身が認めていればそれでよい」と意識付けるようになりました。
とはいえ、いつもいつでもうまくいくなんて事はありませんので、気持ちに影が差すこともあります。
ということで、今回は典藻の承認欲求に関するお話をしましょう。
直近の記事にも絡めていて惚れ惚れするほど円滑な導入ですね。
承認欲求とは
他者に認めてもらいたいという欲求
先ず、ここ数年、巷……と言いますかインターネット上でよく見聞きする「承認欲求」とは何かについて考えましょう。
承認欲求とは「他者に自分の存在を認めてもらいたい,あるいは自分の考え方を受け入れてもらいたい,という欲求」(※)であり、「承認欲求の強い人は同調性が高いこと,説得されやすいこと,自己評価が低いことなどが知られている」(※)のだそうです。
※引用元 心理学辞典,株式会社有斐閣,2010)
アメリカの心理学者であるマズローは、自己実現に至る理論として、人間の欲求は5段階の階層に分かれると提唱しました。……で合ってますかね。合っている筈。
この欲求階層説において、低次から順に、1 生理的欲求、2 安全欲求、3 所属・愛情欲求、4 自尊・承認欲求、5 自己実現欲求と各種の欲求が位置付けられています。
低次の欲求が満たされて土台になり、より高次の欲求に進む形になります。
生理的欲求が満たされれば安全を求め、それが満たされればまた次……と段階的に自己実現に向かっていくということですね。……ですよね?
この階層分けの4段階目がいわゆる承認欲求と呼ばれるものでしょう。……多分。
マズローの理論に則るのなら、インターネット上で悪し様に言われる「承認欲求」が強い方々は、生理的欲求、安全欲求、所属・愛情欲求が満たされている状態であることになります。
欲求が満たされて土台ができていること自体はよいことですね。
俗語としての「承認欲求」
とはいえ、インターネット上で言われる「承認欲求」は、深い意味合いについては考えられず俗語として広まっているように思います。
もちろん、上記の辞典からの引用のような意味もあるかと思いますが、承認欲求が強い=目立ちたがり屋ぐらいの意味合いで使用されているように思います。
心の疵を指す「トラウマ」という言葉を「○○なのがトラウマで~」と気軽に使ってみたり、鬱症状もないのに「○○すぎて鬱になる」と言ってみたりという軽薄さに類するものかと思います。
まあ、短い言葉でイメージやニュアンスを共有できるというのは便利ですからね。トラウマや鬱に苦しむヒトのことも考えないような使い方をするのも已む無しですね。
そんなライトでポップで気軽な使い方をされる俗語としての「承認欲求」ですが、基本的にはあまりよくない意味で使用されることが多いように思います。
典藻のもとに届く情報が偏っているからそう思うのかもしれませんが。
そういった「承認欲求」が高じて、「炎上」と呼ばれる事態につながる行動を起こしてしまうわけですね。
ヒトの振り見て我が振り直せと言いますので、ああはなるまいと自分に言い聞かせておりました。
冒頭文の通り、「誰に認められずとも自分自身が認めていればそれでよい」と思っていました。
「いいね」を求める欲深さ
しかし、SNSというのは恐ろしいもので……いえ、正確には典藻の中に眠る「承認欲求」が思いのほか強かったもので、典藻もまた「いいね」を求めて彷徨う愚者になりました。
ああ悲しい。ああ忌まわしい。ああ呪わしき承認欲求。
Youtubeの動画などで「高評価やチャンネル登録が励みになりますのでお願いします!」とよく聞くのですが、励みになるという感覚を身をもって知りました。しかもこれは中毒性のあるものというのが厄介ですね。
Youtubeにて
典藻キロクが高評価を頂けるSNSとして初めて使用したのがYoutubeです。
わたし、当初はVtuberとして活動するつもりでしたからね。
あの頃は前職場で気持ちが疲れていたこともあり、一番最初の動画が2回視聴されただけで「わたしのことを見てくれている人がいるなんて!」と嬉しくなっていたものです。
ちなみに、この記事を書いている時点での最高の高評価数は2です。もちろん低評価を頂いている動画もありますよ!
しかし、Youtubeでの高評価数は気になりません。何故なら殆ど活動していませんからね。
pixivにて
続いて、pixivの話です。
いつぞやのイラスト30日連続投稿チャレンジの頃から、徐々に徐々にブックマークやいいねが付くようになりました。
こちらは初ブックマークの方はともかく、投稿の度にブックマークをして下さる方々もいらっしゃって、絵がよいと思ってのことなのか、「とりあえずブックマークしておくか」という感覚なのかはわかりません。
とはいえ、ありがたいものです。
うまく描けたか否かよりも、描かれたキャラクターの知名度がブックマーク数に繋がるのも分かってきたので、pixivで高評価が集まらないのも特に気になりません。
当ブログにて
さて、現状わたしのホームになっている当ブログの「いいね」についてです。
当ブログが開設されたのは2021年5月末。「いいね」を導入したのが2024年1月のことです。
そして現在「いいね」を付けて下さるのは基本的におひとりのみです。いつもありがとうございます。
Vtuber関係の記事を書いた時だけ、1記事に3いいねが付くことがありました。読者層的に「いいね」をするという文化があるのかもしれませんね。こちらもありがたい。
当ブログの「いいね」機能は読者の満足度を測る為のものなのですが、まあ満足感を与えられていないということで精進すべきなのでしょう。
現状の特定のひとりから頂ける「いいね」というのも、それはそれでよいものです。
「読んだよ!」というお知らせと言いますか、あるいは典藻とその方だけでの特別なやりとりと言いますか。
固定の読者というのは非常に嬉しいものです。
ツイッターにて
おまけとしてツイッターの話もしましょう。
ここ最近の典藻のツイッターはVtuberのファンアートの投稿場所としての機能が主になっています。
まあ、ファンアートとしてのクオリティが低いのはわかります。わかっていますとも。
だって、我が天使を「推し」と呼ぶ方の中にはプロの絵師の方もいるのです。そんな方々が描くものとは比べるべくもない。恥さらしと呼んで差し支えない行為です。陰で指さして嗤われていても仕方ない。
それはさておき。
いえ、話は繋がっているのでさておかず。
典藻の描くファンアートの「いいね」の数の最頻値は3です。
我が天使当人、天使を推す同志(固定)、何故かフォローしてくれている異邦の絵描きの3人が毎回のように「いいね」を下さります。ありがたい。
推しに認知されていることの光栄さと共に、推しのみならずわたしにも関心を向けて下さる同志の方の優しさに涙がちょちょぎれます。デトックス。
配信者の方の天使も、プロ絵描きの方の天使も、そんな拙作を引用リツイートしてくださることがあります。
そちらはですね、わたしの投稿本体よりも多く「いいね」をされているのですよ。
いえ、わかります。わかりますとも。
我が天使が添える一言にこそ価値が見出されているのです。
そもそもフォロワー数が違えば「いいね」の数が違うのは当然ですしね。
理由がわかっているので、納得はしています。なんならば、わたし自身も自分で描いたものより天使の一言をありがたがっていますからね。
ここで悔しさを覚えてしまうのが、「いいね」への依存、承認欲求なのでしょう。我が事ながら愚かしい。
配信の感想ツイートをする事にやんわりと釘を刺されてしまった以上、感想は目につかないところに書くか、ファンアートとして出力するしかありません。
であれば、これからも何かしら描きますとも!
おわりに
以上、典藻が自らの承認欲求に悩まされているという話でした。
ふふふ。ヒトモドキなれどもヒトらしい感情を持っているのですよ。
呪わしき承認欲求ではありますが、マズロー先生の理論の通りなら、これも自己実現に至る過程です。
承認欲求が満たされれば、自己実現の欲求の段階に至れるのです。
「典藻キロク」が実現される日も近い! …………のでしょうか?
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