妻との間でのみ成立する「素」のコミュニケーション

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 友人間、家族間など、共通の認識をもつ親しい相手が属する特定のコミュニティにおいてのみ成立するコミュニケーションというものがあるかと思います。
 わたしと妻の間にも、そういったものがあります。

 感謝を示す際に「ありがたいやきー」と言いながら手を擦り合わせてみせたり、奇数個入りのパッケージの食べ物を買ってきたときに「(2人で割り切れないから余りの1個をどちらが食べるか決める為に)殺し合わなきゃ」とどちらからともなく言ってみたり、共に暮らすぬいぐるみを介した話題を頻繁に挙げたりです。

 
 夕方~夜間に散歩している犬が光る首輪をつけているのを見た時には、その色によってコメントしたりもします。
 青や緑なら「セーフ」。黄色なら「ちょっとHP減ってる」。赤なら「そろそろ爆発する」。赤点滅なら「爆発する。ヤバい」。多色発光なら「ゲーミング」です。
 また、同じ犬種の犬が2頭で散歩しているのを見かけた時には「オルトロス」と呼んでいます。近所でよく見かけるのは柴犬の「ケルベロス」です。


 そのほか、その時々で思いついた「テキトーな事」をどちらかが口にして、それに基づいて寸劇をしてみたりします。
 といったように、傍から見れば意味がわかりそうでわからないコミュニケーションをとっています。ある意味で、ふたりの世界というやつでしょうか。

 わたしの素としましては、思いついたダジャレをすぐ口に出すし、意味もなく小躍りしたりするし、ぬいぐるみと話したりするのです。
 よそでやれば奇人変人を通り越して異常者扱いでしょう。それらが許容される妻とのコミュニケーションが非常に心地よいのです。
 滑舌の悪さや言い間違い、記憶違いを強く指摘されることもありませんし、わたしが出来ない何かについて馬鹿にされることもありません。声に出して言葉を交わすことにおじけづかなくてよいのです。妻がいる時いる所は、わたしが素で話すことや笑うことが許される空間です。好意を好意として言葉や態度で示すことが許されるというのも安心できます。
 とかく冗談として取ってもらえないわたしの冗談を、毎回丁寧に拾ってツッコミを入れてくれるのも心地よいです。勘違いされずに、自分の意図が相手にきちんと伝わるということは、嬉しいものです。

 
 素の顔とよそゆきの顔に乖離があることは自覚しています。職場では「無表情で感情が読み取れない」と言われる一方で、妻からは「またテキトーなこと言ってる」「にこにこしてる」と評されることが多いです。相手を信用できているか否かで態度の差が大きいのですね。
 いつだったか、わたしが素で話しているのを見た弟が、妻に対して「兄はいつもあんな感じですか?」と驚いたように訊いていたことがありました。「他人を信用しない」という悪癖が、血縁者まで対象にしていたのだと気づかされます。



 妻とのコミュニケーションが成立するのは、一緒に暮らしている期間が長いということももちろんありますが、同い年かつ子供の頃に視聴したアニメで共通するものが多い=創作物による情操教育に方向性が近い点が大きいように思います。お互いに、カードキャプターさくらやポケモン、デジモンから学ぶことが多かったのです。
 あとは、世間的にはお互い「変な人」扱いですので、わかりあえる部分もあるのでしょう。


 気を許せる相手も少なく、対等な立場として見てくれる相手もほとんどおらず、言いたいことがしっかり伝わる双方向コミュニケーションというものに飢えています。妻と映画を観に行った日の夜などは、感想を話し合って気づけば数時間が経っていることもざらにあります。このブログで延々と「私見」を書き連ねているように、わたし自身の意見を述べること、話すこと自体は好むところなのです。それを聴いてくれる相手が妻しかいないだけで。



 子どもをつくらないなら、結婚することに意味はないだとか。
 お財布を分けるのなら、やはい意味がないだとか。
 結婚自体がそもそも人生の墓場だとか。
 あれこれと言う方はいらっしゃいますが、素を出して話ができる人と一緒に暮らせるというだけで、十二分に意味はあるものだと、わたしは思います。素でのコミュニケーションが成立するというのは、それほど嬉しく、得難いものです。

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