いちばんになりたい/なれない

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「いちばんになりたい」

 そのように内心でつぶやく度に思い出すのは「ガーリッシュナンバー」というアニメのオープニング主題歌です。歌いだしの歌詞が「一番になりたい」ですからね。あのアニメで印象に残っているのは、やたらラノベ作家を蔑んでいたということです。それ以外はイマイチ覚えていません。見ていて不快なものではなかったので、いつか機会があれば視聴し直すこともあるかもしれません。

 別に今回は「ガーリッシュナンバー」の話をしようというのが主旨ではありません。「いちばんになりたい」というわたしの欲望の話です。そして、タイトルどおり「いちばんになれない」という現実の話です。

ノーワン怪人への好感度の高さの正体

 わたしは、ノーワン怪人が好きです。

 以前の記事で紹介しましたノーワン怪人は生成AIによる出力をモチーフにしているらしい怪人で、「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」に登場する敵です。
 それぞれが「俺は〇〇ナンバー1!」と自称する特技があり、その得意分野でゴジュウジャーの面々と対決します。怪人の常として、最後はヒーローにナンバー1の座を奪われ、倒されてしまうわけですが、わたしは彼らノーワン怪人へ高い好感度を持っています。

 もともと、怪人側に感情移入することの多い身ではありますが、ノーワン怪人たちへの好感は例年と比較して上位に位置します。特に理由を考えることもしなかったのですが、今回の話題である「いちばんになりたい」というわたし自身の感情について思いを巡らせるうちに、答えを得ました。

 ノーワン怪人たちは、同じ組織に所属する幹部怪人から「みんなペッペケペー」と言われる一方で、同時に「なにかしらのナンバーワン」とも評されています。なにかひとつ特技を持っていて、胸を張って「俺はナンバー1!」と言えて、しかも同胞からそれなりの評価をされている姿に、わたしは少なからず憧れを抱いているのだと思います。わたしには、他人に誇れるような(褒めてもらえるような)特技がありませんからね。

 これまでの人生で何かを頑張ったことがないから、誇れるものが何もないわけです。そりゃあ、ノーワン怪人の堂々とした姿に憧れもします。

結果が伴わないなら頑張った「つもり」でしかない

 頑張ったことがないから、何も誇れない。……だからといって、何かをガムシャラに頑張ったとして「いちばん!」と誇れるものが得られるわけではありません。頑張るにしても、適切な頑張り方をしないといけません。

 社会人にとっては常識かと思いますが、社会において、何かを頑張ったと主張しても、そこに結果が伴わなければ評価はされません。
 求められる結果を出せないのなら、当人の認識で「頑張ったつもり」でしかなく、周囲にとって何の価値も認められるものではないのです。結果や成果がすべてです。むしろ、同じ結果を得られるのなら、過程は省エネであるほうが賞賛されます。如何に少ない労力で、多くの利益を得られるかを考えるのが社会人です。

 見かけの上での「頑張った」には何も価値はありません。見せかけの頑張り、ハリボテの努力……世間的には「やっている感」と揶揄されることもあるかもしれません。とにかく、結果こそがすべてなのです。

 たとえば、わたしがブログを毎日更新したとして、それはやはり「やっている感」でしかありません。何かの結果を出すことに繋がっていませんから。
 それ故に、わたしは自身を指して「頑張ったことがない」と表現することがあるのです。自分なりの「頑張った」がないわけではないのですけどね。

頑張ったからといっていちばんにはなれない

 上記の内容と重複しますが、「頑張った」という自認自体には何の意味もありません。自分の中で「頑張った」と思っているからといって、それでいちばんになれるわけではないです。当然のことですね。

 以前の記事で労力と成果が釣り合うものではないと実感した話をしました。
 これをより正確に言えば、「目的に対して適切な労力」であるのなら、成果に結びつきはするのだと思います。運動機能を上昇させたいのなら、体を鍛えるべきであり、ただプロテインドリンクを飲むだけでは効果は得られないように、です。
 何事にも王道はないのです。近道はなく、さりとて時間をかければよいというものでもなく、目標達成の為の計画立案と実行が肝要であるのです。

小学生の頃、絵の話

 適切でない労力により「頑張ったけどいちばんになれなかった」という思い出が残っているのが、小学校の時分に図工の課題で絵を描いた話です。ブログ内で2回ぐらい触れたことがある気がします。

 放課後に自主的に残ってまで、時間をかけて自分なりに丁寧に描き上げた絵でした。
 結果としては、いちばんどころか、何の評価に掠ることもなく、誰に褒められることもありませんでした。時間をかけることや、自分なりにこだわった描きこみなどは「適切な労力」ではなかったのです。

 この時に、正しいやり方があったとすれば、まずは自分の絵が下手くそであることを自覚し、どうせ時間をかけるなら巧拙でなく発想で勝負する方向にして、アイデア出しに力を入れるべきだったのだと思います。

 どれだけ頑張ったかではなく、どれだけ結果を出せたかが問われることを学べたのは、よい機会だったと言えます。

直近1年で頑張ったことの話

 矛盾するようですが、適切な手段でなかったにも関わらず、手探りでの頑張りで成果があがった話もしておきましょう。まあ、何事にも例外はあるということで。

 
 直近1年間のことです。定期的にブログをお読みくださっている方はご存じかと思いますが、ここ1年でわたしが力を入れていたことといえば「推し活」です。……本題に加えて、少々の推し語りや推し自慢の話も交えますので、この項目は長くなります。読み飛ばして下さっても構いません。読んで下さる方は「こいつ推しの話になると、いつも湿度と粘度が全開になるな」と思っておいてください。


 さて、推しを応援するファン同士で優劣や序列を競うものではないというのは、重々承知しております。わたしが尊敬する「ちゃんとしたファン」の方々は正しき道を、わたしのような厄介ファンは邪の道をそれぞれに往くわけですから、そもそも本来は交わることもありません。交わらないのなら、何を比べるべくもないのです。


 しかし、少し前に、推し当人にとっての、ファンの中での優劣や序列……というか優先度? が可視化される機会がありました。
 そうなれば自分の立ち位置が気になってしまうのが、ほぼネットストーカーのわたしの性というものです。好奇心は猫を殺す。あるいは、わたしを打ちのめす。期待半分諦め半分で確かめたところ、わたしはいちばんではありませんでした。ファンのなかでの優先度は4番か5番でした。いちばんは遠く、銅メダルにも届いていません。

 勘違いしないで頂きたいのは、いちばんになれなかったことについては何かを思うところはなく--いえもちろん悔しさはありますが、そこは本題ではないので--いちばんではなくても、これもひとつの成果と呼べるのではないかということを話したいのです。

 考えてみて下さい。わたしは、わたしなわけです。ノータリンなヒトモドキのわたしです。それが「ちゃんとしたファン」のお歴々に名を連ねることが許されているのです。ヒトモドキ風情が人間様と並べるというのは、個人的に結構な快挙です。「ちゃんとしたファン」とわたしの間にある差を、少しでも埋められたからこその結果です。頑張りの成果です。

 1年間、今までしたことのない「他人の活動を本気で応援すること」というのを、手探りで行っていました。寝食を削り、リソースを振り絞り、適切な手段かどうかもわからないままに頑張りました。
 これに関しては、成果がでているものとして、「頑張った」と言わせてください。その結果として勝ち取った4番です。いちばんではなくとも、価値あるものです。

 知恵と力を出し尽くして、それでいちばんに届かなかったのなら、少なくとも現状のわたしでは力不足ということです。少しの悔しさは、頑張った証拠だと思っています。頑張っていなければ、「こんなものか」で済ませてしまいますから。
 全力を出して負けるというのは、なんだか爽やかさが残ります。「あれだけ頑張ったけど勝てなかった」「でも、全力を出し切れたから気分のよい負けだ」と。


 ここで推しの自慢をさせていただきたいです。推しは、人を見る目がしっかりしているのだと、今回のことで実感しました。

 わたしが言うところの「ちゃんとしたファン」のお手本のような方々が、しっかりとわたしよりも上に位置付けられているのです。この負け方はきわめて順当で、だからこそ爽やかさがあるのかもしれません。「この人たちになら、そりゃあ敵わない」と心から思えます。人を見る目が確かである推しが誇らしいです。
 いちばんになりたかったと思う一方で、もしわたしがいちばんに選ばれていたら、嬉しさと同時に「見る目がない」とがっかりしていたかもしれません。我ながら倒錯した感情です。

 ……厄介ファンとしてならナンバーワンを目指せますね。怪人に取り込まれて、厄介ファンノーワンにでもなりましょうか。「わたしこそが、厄介ファンナンバーワン!」と、名乗ることもできるかもしれません。

 わたしは、推しのことが好きであるのと同時に、推しを幸せにすることができそうな「ちゃんとしたファン」の方々も好きなのです。たぶん。わたしが望む彼女の幸福にわたしは寄与できませんが、わたしに出来ないことを出来る方々が好きなのです。基本的に人間嫌いなので、「この点に関しては」という枕詞がついてしまいますけど。


 ……話が大きく逸れました。要約すれば、「ノウハウがない中で推し活を1年間頑張ったので、成果がでた」という話です。ひと言ふた言で済む話でしたね。失礼しました。

オンリーワンではダメなのか

 令和いまを生きる平成人へいせいびととしては「No.1にならなくてもいい もともと特別なonly one」や「2位じゃダメなんですか」という言葉が脳裏をよぎることもあります。

 あるいは、憧れのヒーローやその主題歌に倣って「俺こそオンリーワン」という表現に変えてもよいです。ナンバーワンを目指さず、オンリーワンとして自分を肯定するというのも、考え方のひとつでしょう。

 ああ、しかし、現実は厳しいもので、わたしがオンリーワンなどと、そんな甘い話はありません。

 もう何度言ったかわかりませんが、わたしに出来ることは誰にだって出来ることです。
 わたしに唯一無二の価値などありません。わたしにしか出来ないことだとか、わたしにしかない意味や価値はありません。量産型、没個性、低能力……わたしの存在のどこをとっても、上位互換はいくらでもいます。オンリーワンには程遠いです。

 唯一性というのもやはり、誇る個性があってこそのものです。誰もが特別なオンリーワンなわけがないでしょう。ナンバーワンになれないからといって、誰しもにオンリーワンという逃げ道があるわけではないのです。

妻にとってはいちばんなのでは?

 妻にとっては、たしかにナンバーワンだったりオンリーワンだったりする部分はあるかもしれません。しかし、それも「暫定1位」ということです。

 先の通り、わたしの上位互換などいくらでもいます。美貌、聡明さ、経済力……なにをとっても低水準なわたしよりも「よい男」はたくさんいます。現状で妻が出会った中では、いちばんではあるのでしょうが……。それでも、婚姻という公的な形で、パートナーとして認定してもらえているわけですから、それほど卑屈になるものでもないでしょうか。

 とりあえずは、暫定ナンバー/オンリーワンと胸を張っておきましょう。

 わたしから見れば、妻はベストマッチのパートナーです。ですが、客観的に見れば釣り合ってはいないのです。ここでもわたしは力不足です。だからこそ、自分が「暫定1位」でしかないと、自信に欠けるのだと思います。平時ならそう気にしないのですが、ネガティブになると、妻のような素晴らしい人物の人生を、わたし相手に浪費させていることの罪悪感が強まったりします。

なんでいちばんになりたいのか

 そもそもの話ですが、どうしていちばんになりたいのかということに触れておくべきですね。記事内での順序がおかしい? HAHAHA 正論。

 褒められたい、認められたい、肯定されたい、愛されたいという欲求。自己実現の欲求。衣食住が満たされたのなら、承認されたいという欲求を持つことは当然でしょう。マズロー先生もそうだそうだとおっしゃっています。いちばんになれば、それらの欲求が叶います。

 いちばんになれば、褒められる/認められる/肯定される/愛される。
 だから、何かでいちばんになりたいのです。先に挙げた「手探りの推し活を頑張ったら成果がでた」という話も、「厄介ファンナンバーワン」というある意味でのいちばんだからこそ、認められたという見方ができます。

 たったひとりにだけ与えられる「いちばん」とまではいかずとも、少なくとも、他人からの評価というのは勝ち取る他ないものです。世の中は、勝てば官軍負ければ賊軍です。正しさを主張したいのなら、何かに勝たなければなりません。

 誰かに誇れるなにかが欲しい。自信に繋がる何かが欲しい。だから、いちばんになりたいのです。

おわりに

 長々と書きましたが、「いちばんになりたいけど、なれない」という話でした。より正確には、誰かに誇れる何か、自信を持てる何かがほしいという話です。
 その割に、結果を得る為の努力をしていないのですから、救いようのない愚か者です。まあ、今さら言葉として表すまでもありませんでしたね。

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