職業柄なのか何なのか、たまに「人間好き」を自称する方と対面することがあります。共に仕事をする相手なら「『人間好き』だから福祉の仕事をしている」と言っていたり、あるいはお客さんであれば「『人間が好き』だから、誰とでも仲良くできる」と話すのを聞くことがあるのです。
一方で、わたしは公私ともに「人間嫌い」を自称してはばかりません。それは人体の構造を気味悪がっているだとか、人間の文明を忌まわしく思っているだとか、そういう話ではありません。より厳密には「人間関係が嫌い」という点に収束するのですが、しかし「人間嫌い」という大まかな自評は、他者評と大きな相違のないものと思います。
「人間嫌い」のわたしからすると、自称「人間好き」はとりわけ嫌いな部類の人間です。
「人間好き」は「かっこつけ」
彼ら彼女ら(体感としては女性が多めですが)の言う「人間好き」には、その前後に括弧に囲われた言葉が付くように感じます。
・(自分にとって都合がよい)人間が好き
・(自分というたった1人の)人間が好き
・人間が好き(と言っている自分が好き)
・人間が好き(と自分に言い聞かせて、嫌いなものから目を逸らしている)
というように、ただ「人間好き」というのではなく、但し書きが括弧内に隠れている人ばかりです。あくまでわたしの経験則でしかなく、何かを定量化したり統計をとったりしたものではありません。感想に過ぎず、信頼できるデータに基づくものではありません。しかし、わたしが「人間好き」という自称を信用しなくなるには足るものです。
この括弧内の言葉について、本人が認識しているのかどうかはわかりません。「人間が好き」と言ったその口で、誰かの陰口を叩いているのを見れば、その言葉が嘘だったことがわかるでしょう。言葉に括弧がついている……つまりは「かっこつけ」です。
好き勝手に「人間」の定義を変える
「人間好き」を自称しながら、人間に向き合わないという姿勢も、わたしの癪に障る部分です。
たとえば、高齢者・障害者を指して、「一生懸命に○○してる姿がかわいい」と言っていた「人間好き」がいました。対等であるはずの人間に対して、イヌネコや、同じヒトだとしても幼児のように扱うことに違和感を覚えました。人間を相手にしながら、自分と同じ人間として扱わずにいながら、どの口が「人間好き」などと名乗るのか。
能力の差、成育歴の差、環境の差……それらの積み重ねにより多様性を持つのが人間というものでしょう。その多様性を認めず、自身の決めた水準に満たない相手を見下してよいと判断するのは、「人間好き」として人間と向き合っていると言えるのでしょうか。
あるいは、「自分は人間が好きだが、自分に仇なすものは嫌いである。しかし、それらは『人間』ではないのだから、自分が人間を好きであるという理屈に矛盾はない」という方もちらほらと見ます。殺生院キアラをビーストたらしめる理屈を薄めたような理論武装です。遊戯王カードのテキスト的でもあります。自分が嫌いな相手については、その対象が人間であることを否定し、人間の悪性に向き合おうとしない姿勢です。人間のことを好きであると言いながら、人間のもつ属性の一部から目を背けています。
似たものを挙げるのなら、僭称フェミニストが用いる「名誉男性」という便利なレッテルが当てはまるでしょう。「女性の味方」を標榜しつつ、自身が気に入らない女性を「女性ではなく『名誉男性』である」と一方的に属性付けすることで、「自分が攻撃しているのは女性ではない。なので、自分が女性の味方であるという主張に矛盾はない」と騙っているわけです。堅白同異の弁です。
「人間好き」を掲げる彼ら/彼女らよりも、「人間嫌い」のわたしのほうが、よっぽど人間に対して真摯であるとさえ、思えてしまいます。なぜに不誠実な「人間好き」が、誠実な「人間嫌い」よりも大きな顔をしているのか。
本当に人間が好きだというのなら
わたしの狭い見識での話ではありますが、本当に人間が好きならば、それをわざわざ口にすることはないと思うのです。
「好き」という感情は、それを向ける対象を幸せにしたいだとか、役に立ちたいだとか、我が身を捧げたいだとか、そういったものでしょう。自身を「人間好き」と称するのなら、その行動原理は少なからず人類への貢献や奉仕につながるものになるはずです。そこに上辺だけの言葉を添えて、どんな意味があるのでしょうか。人間が好きだというのなら、それは言葉ではなく行動で示すのが自然な振る舞いであると思います。
だというのに、彼ら/彼女らは、言行不一致の「人間好き」を口の端から漏らすのです。
はたから見れば、彼ら/彼女らが自身に言い聞かせる為に、薄っぺらな「人間好き」を言葉にして体外に吐きだしているように思えてなりません。その自己暗示の結果が、これまでにわたしが見たアレらだというのですから、笑い種です。
かっこつけた自称をせずとも、彼ら/彼女らよりも他者愛を感じられる方なんていくらでもいます。
「人間嫌い」のわたしは「人間好き」が嫌い
自分が人間に向き合っていないことを棚に上げて、臆面もなく「人間好き」を自称できる彼ら/彼女らのツラの皮の厚さには感心します。その分厚い皮こそが、「人間好き」という偽りを形にした仮面なのでしょう。
同族嫌悪から、わたしは不義理・不誠実・嘘つきな人間が特に嫌いです。人間に向き合うこともしないくせに「人間好き」と嘯く人間が嫌いなのです。
逆に、わざわざ言葉にせずとも、その行動から「人間好き」が滲む方々は尊敬します。頭が上がりません。わたしには出来ない人間関係の構築・維持・発展を熱意を以て行う姿は、素晴らしいものであると理解できます。
ここまで読んで、わたしの主張に同意いただけない方も多いかとは思います。賛同を得ようとは思いませんが、シンプルに「口先だけで行動が伴わないやつが嫌い」といえば、言いたいことは伝わりますでしょうか。有言不実行でありながら、その文句の美しさで「親しみやすい人」「善い人」として扱われることへの怒りもあります。
とにもかくにも、わたしは「人間好き」が嫌いです。
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