異邦のヒーロー作品に曰く「大いなる力には、大いなる責任が伴う」そうです。
わたし自身には「大いなる力」も「大それた力」もありませんが、しかし、それでも持ち得る「小さな力」に相応の責任は伴ってくると考えております。
五体満足で産まれたことに伴う責任。
精神はともかく、雑に扱っても壊れない肉体の丈夫さの責任。
大病を患わないでいる幸運に伴う責任。
たとえ小さな力であっても、それが力であるのなら、責任は負うべきものなのです。
わたしが新社会人の頃、職場の先輩に「若い頃の暴飲暴食がたたって身体を壊している人」がいました。大小のミスについて言及された際にその方が言ったことは「私も体がきつい中で仕事をしてるんだから、気遣ってほしい」というようなこと。
若かりし頃のわたしは思いました。「健康維持の為に節制している人たちが、何故に欲にかまけた人の分まで働かなければならないのだ」と。
今にして思えば、視野の狭い考えでした。口に出していなかったので、舌禍を避けられたのが幸いです。
その人にはその人なりの責任があり、それを果たせばよいだけのことなのです。
「暴飲暴食で壊した体で出せる力」に伴う「責任」しかないのです。
一方で、我が身に置き換えてみれば、「特別なことができるわけでも、優秀な結果を残せるわけでも無い単純労働力」というのが精々のわたしの「力」です。
これに伴う「責任」は、「心身の弱い/心身を壊している人の分の仕事も請け負って戦線を維持する責任」でしょう。適材適所です。
ジャンプ漫画のアニメ……の映画の主題歌で言っていました。「僕に足りないものは君がくれる 君にないものは僕があげるから」と。
憧れのヒーローは言いました。「俺はただ俺ができるだけの無理をしてる」と。
人間社会に生きるのなら、その人それぞれが出来る限りの無理をして、補い合っていくほかないのです。
まだまだ未熟なわたしなので、「子供の行事があるからその日は休みます」や「今の給料じゃこれ以上は仕事できませんよ」という言葉たちに対して、漠然とした不公平感を覚えることもあります。多少は成長しているので、態度に出すようなことはしませんけれど、内心では「休みがとれていいなあ」と思わないではありません。
しかし、「子を育てる」や「給料に見合う範囲で効率よく仕事する」というのは、わたしに到底できないことですので、これもやはり適材適所でありましょう。
わたしはただ、生ける屍のごとく無心に労働に従事するという責任を果たします。
家庭の事情、心身の不調、その他諸々の事情で戦えない人の分も戦いましょう。するべき誰かができないのなら、代わりの誰かが補わないといけません。わたしだって休みたいけれど、わたしの事情や不調は後回しにするほかありません。精々(都合の)よい人として、休日を捨てて、楽しみにしていた予定も潰して、時に私財を燃して、働きましょう。
小さな力にだって、責任は伴うのです。ヒルデガーンに立ち向かう悟空のごとく、わたしがやらないといけないのです。
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