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元来、わたしは自分自身のことや興味の向くことについて、べらべらと話し続ける質であります。しかし、わたしのような中身のない者は、常日頃から言葉が多ければ、そのひとつひとつが軽いものになってしまいます。普段は言葉なく静かに過ごし、必要時に話すことで「言葉の重み」というものを担保します。
……と、それらしい理由を考えてみたこともありますが、まあ、要するに「会話」からの日常的な逃避をしております。自分のことを話すのが好きであっても、誰かと話すことに向いていないということを嫌と言うほど思い知っています。
ジョークはジョークと捉えてもらえませんし、語意・文意が伝わらないことも少なくありません。
場面にもよりますが、わたしが声を発すれば、物珍しそうに「○○くんが喋っているよ!」「笑ってる!」と囃し立てられ見世物にされる小中学生時代でした。諸々を経て、高校の頃は学校で終日発生することなく過ごす日もありました。ある種の「大学デビュー」で友達をつくろうとしてみれば、結局、人間関係を維持できず、最後に傍に残ってくれたのは妻だけです。わたしの話をバカにせず、そして無理せず聞いてくれる妻を「地上で唯一の理解者」と称するのは大げさなことではないのです。
他人と話すことが苦手な割に、広義の意味での営業職をしているというのが、不思議なことではあります。
しかし、仕事でお客様に制度や用具の説明をするのは、うまくやれています。問われたことや現状の問題点について、「自身の知識」という自分語りをしているわけですから、元来の性分に合っている面があります。語調や声量、言葉の選び方さえ、それなりに気を付ければ、そう難しいことではありません。
雑談というものは、やはり苦手です。
整合性がとれていなかったり、堂々巡りだったり、オチがないような話を聞くと疲れます。心身が疲れているときに、そういった話を聞かされて、相手にとって満足のいく返しができなければ「冷たい」と言われます。なぜに同僚にまで「お客様」水準の仕様で対応しなければいけないのか。
何を言ってもハラスメントとされる昨今ですから、年上かつ異性の部下というものには余計なことは言えません。言葉に気を付けていけば、会話への苦手意識以前に、何も言えずに沈黙するしかなくなります。そうした気遣いも、空気が読めてなかったということでしょう。わたしは「冷たい」そうで。
まあ、人によって「ふつう」というものが違うわけですから、わたしの「ふつう」が相手の「冷たい」であるというわけでしょう。そして、そう捉える人が多数派なのですから、自然、わたしが悪者になります。人間嫌いが深まりますね。
発声を介さず、文字媒体でのコミュニケーションならば多少ハードルは下がります。それでも、よく考える時間がなく、瞬発力の求められるやりとりでは、失言も多いものと思います。自分ではわかりませんが。
空気を読めておらず、その場において自分が「異物」として扱われるのは、いつまで経っても気分のよいものではありません。空気を読めない自分が悪いので、誰を責めることもできないというのが、さらに息の詰まるところです。顔の見えない名前も知らない相手ですら、「空気を読めているか」と不安になるのです。
かつて恩人に言われた「キロクさんがインターネットに慣れてないのわかるよ」という、気遣いの文脈からの言葉が、芯を食ったものでした。咎める意図は微塵もなかったものと思いますが、つまりは、その場に馴染めていなかったということです。どこにいっても、その場にそぐわない「異物」でしかないのです。そんな言葉を言わせてしまったことを、ふとした時に思い出します。恥ずかしいやら、申し訳ないやら……。
「異物」であることが嗤われるのか、あるいは存在を許容されるのかは相手方の度量や気品やエトセトラに依存します。
我が恩人は、わたしにとてつもなく甘い判定を下してくださるので、後者であります。存在すること、発言することを嗤わないでいてくださるのですから、なんともお優しいことです。しかし、わたしが自身の「異物」感に堪えられるかというのは、また別の話です。
空気が読めていない、浮いている、異物である……それらについて、普段は極力気にしないようにしていますが、ふとしたことで、気恥ずかしさや疎外感に、沈黙を選ぶようになってしまいます。余分なことを言って、他人に不快な思いをさせたり、自分が恥ずかしい思いをすることに比べるのならば、まさに沈黙は金でしょう。
本来なら「異物」らしく、皆が楽しそうに話しているのを遠巻きに眺めるのが、分相応というものです。それが、妻という理解者の存在があるのです。奇跡的なものであり、これ以上を望むのは贅沢というものです。誰かと会話ができなくても、こうして長々と独り言を連ねる場所もあります。空気を読めるようになりたいなどと、あまり欲深なことは言いますまい。
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