怪人はねぇ人間じゃあないんですよ

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「怪人はねぇ人間じゃあないんですよ」

 この記事タイトルは、仮面ライダーシリーズの一作品からのセリフの引用になります。この後に「人じゃないものと、どうやって共存共栄できるんですか?」と続きます。
 なんでもないセリフです。なんならば、インターネット上ではこれをネタにして玩具にしているのを見かけることもあります。
 しかし、わたしはこのセリフが突き刺さってしまい、当該作品の以降の話を視聴できていません。
(余談ですが、冒頭の痛々しいシーンで何故かラ王が脳裏をよぎって、シリアスな気持ちと止められない笑いというアンビバレントを味わったのも忘れがたいです)

 
 当ブログをお読み下さっている方ならご存じかとは思いますが、わたしは度々「憧れのヒーローに倣って」というような発言をしています。誰かを守れるヒーロー、誰かに愛されるヒーロー、優しい人が泣かなくてよい世界の為に戦うヒーロー、優しい人が流した涙を拭うハンカチのようなヒーロー……。そんな彼らに憧れてやまないのです。
 しかし、反面、憧れているということは、現状は「そうではない」のです。ヒーローではないから、ヒーローに憧れるのです。
 悲しいことに現実は真逆です。わたしの在り方は、ヒーローではなく「怪人」です。

 理想とするヒーローではないどころか、「人間」ですらなく、怪人。
 怪人はね、人間じゃないのですよ。


 人間同士、異なる人格同士で相互不理解が起きることは珍しくありません。それでも、互いに「ちょうどよい」距離や振る舞い、「ふつう」の行動をとることで、相互不理解を前提としつつも相互不可侵の部分を守って共存しているのです。

 
 怪人は人間じゃないから、人間の「ふつう」がわからないのです。
 かつて、わたしなりの「ふつう」の範疇が、他人にとってはストーカーという悪だったということで気づいたことです。

 自分の「ふつう」が世間に通用するかどうかわからないから、他人と関わらず、陰でこそこそと生きるのです。必要最低限しか関わらず、そのわずかな時間だけ人間に擬態していれば、「変なヤツ」と訝しまれても「排除すべき怪人」であるとはバレないはずなのです。
 

 わたしとて、生物としての人間ではあります。対外的に精神性を誤魔化せば、人間社会で生きていくことはできます。
 殺人ゲームを楽しむ民族ではありません。鏡の世界に生きヒトを喰らう魔物ではありません。人間の姿を写し取る地球外生命体ではありません。人喰いの化け物ではありません。
 なので、わたしの趣味娯楽が人間を害するものでは無いはずですし、人間の社会を乗っ取ろうなどという野心もありませんし、生きる為に人間を摂食する必要もありません。作中で描かれる彼らに比すれば、人間との共存共栄は難しいものではないのです。


 しかし、それは他者との関りを最低限に留め、怪人としての価値観が他人を傷つけないように過ごしてこそ成立するものです。怪人でありながら、それでも自分を人間と呼びたいのなら、隠遁すべきなのです。
 怪人である以上、自身の「ふつう」で人間に触れれば傷つけるのです。それは、触れることで新たにつける傷かもしれませんし、古傷を抉るということかもしれません。その苦痛に耐えることを相手に強いてしまうのなら、それを共存とは呼べません。
 自分らしく生きる、などというのは文句だけは美しいですよね。ですが、怪人が自分らしく「ふつう」に生きてはいけません。


 そして、仮に「ふつう」を隠して、人間を気遣っているつもりでも、根本に齟齬があるから、必ずどこかで誰かを害するのです。
 わたしは「仮面ライダーアマゾンズ」の第9話が好きです。同作に登場する人喰いの化け物 アマゾンたちが、それでも人間社会で生きる為の拠り所として、隠れて人肉料理を提供するレストランのシェフと客として描かれていました。
 彼らは素性を隠して人間社会で生きることを望みながら、人喰いの化け物に覚醒することを遅れさせるという名目で「少しずつ」人間を食べていました。人間の中で生きたいけれど、人間を食べること自体には何の抵抗もない。この齟齬が、人間と怪人の「ふつう」の違いを描いていて、そしてやはり共存ができないことを見せつけられて、わたしはこのエピソードが好きなのです。
 生物として(抗うことはできるとはいえ)人肉食が根底にあるアマゾンたちは、人間社会のなかでは生きられないでしょう。わたしは彼らと違い、人間を食べずとも生きることはできます。他者との心の交流を望まなければ、わたしの「ふつう」が誰かを傷つけることもありません。心の交流は贅沢品です。生きるのに必須というわけではありません。
 幸いにして、怪人であるわたしを排斥せずにいてくれる妻もいます。これ以上を望むのは過分なのです。


 身に過ぎたことと、わかっているのです。
 わかっていても、やはり心の交流というものを求めてしまうのです。
 つまりは、他者を害することを厭わず自身の欲求を満たそうとする自己愛。
 他者を傷つけるとわかっていて行動して、それでその通りに誰かを傷つける。そんなことばかりして、「人間が好き」などとは口が裂けても言えません。




 憧れのヒーローは言いました。
「さあ、お前の罪を数えろ!」
 怪人になった人間は最期にこぼしました。
「罪を数えろだと? 人を愛することが罪だとでも……」
 愛することに罪はなくとも、その感情を持つが故に自分以外の誰かが涙を流すなら、それは罪でしょう。


 また別の怪人は問いました。
「人の希望を奪って、君はそれでも魔法使いなのかい?」
 憧れのヒーローは答えました。
「人の心を失くしたお前は、人じゃないだろう?」
 人の心を解さないのなら、人として生きることはできませんし、その希望は人間に許容されるものではないでしょう。


 ヒトモドキ、自己愛のケダモノ、路傍の殺生石、終身不名誉ストーカー、永世天然ハラスメンター。呼び方は何でもよいです。根本がおかしいから、「ふつう」にするだけで人間を害するという本質に変わりはありません。
 自身への皮肉を込めて、憧れのヒーローの言葉を引用するのなら……「僕はね。人間じゃないんだよ」。


 怪人はね、人間じゃないのですよ。人間じゃないものが、どうやって共存共栄できるんですか?


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