持てる者は持たざる者を理解できなくて当然

その他





ノーブルレスオブリージュ

 人間は相互不理解の生き物であると、わたしは捉えています。ただでさえ、相互理解の及ばないものなのですから、境遇の違う相手のことなど理解できない・想像が及ばない・歯牙にもかけないといったところでしょう。

 ごく最近の例を出せば、「米を買ったことがない。たくさんもらえるので、家の食糧庫に売るほどある」と発言した方がいらっしゃいました。お米が高くて庶民が喘ぐこのご時世に、です。売るほどあるなら、5kgあたり100円ぐらいであれば、喜んで買って差し上げるのですが、売るほどあっても売る気はないようです。
 一種の挑発であったり、権威か何かの誇示であったり、そういった主旨の発言かと思えば、どうやら冗談のつもりだったらしく。

 このつまらない冗談に呆れたり怒ったりと反応を返したくなる気持ちも当然ありますが、相手の立場に立ってみれば、見方が変わる部分もあるでしょう。

 おそらくは、本当に「米が高くて買えないことに困っている」という民草の気持ちに想像が及ばないのでしょう。自身が困ったことがないのでしょうから。
 どこまで想像力を働かせても、自身の実体験や近しい人間から聞いた話でもなければ、米が買えないなんていうのは、自分とは関係のない異世界の出来事、あるいは実在すらしないフィクションなのであると思えてしまうのでしょう。

 高貴なる者に相応の振る舞い……からは程遠いです。ノブレスオブリージュならぬ、言うなれば、ノーブルレスオブリージュでしょうか。

 ええ、しかし。
 高貴なる者として、身分に相応しい振る舞いをしようとしても、どうすればよいのかわからずに試行錯誤して迷走するというのも、ある種仕方のないことなのかもしれません。
 なんならば、自身が恵まれた身分であるという自覚すらないのかもしれません。当事者からすれば、下々の者は視界に入らないフィクションで、自分の水準こそが「ふつう」なのでしょう。

それぞれの「ふつう」の水準

 上記のお米の件に限らず、持てる者にとって「ふつう」だから、その基準と異なる持たざる者を本気で理解できないものと推察します。


 たとえば、わたしにとって「人の名前と顔を覚える」だとか「気後れせずに会話をする」というのが苦手で、これをもとにいくつかの経緯を経て、人間嫌いになっていることは大抵の人間から理解されません。ここ最近の記事にも書きましたが、職場の人間から無理解な言葉を頂戴しましたし。
 あるいは、速く走れないとか、逆上がりや二重跳びができないとか、当然のようにできてしまう人からは「なんでこんなこともできないのか」と言われて仕方ないのです。

  
 誰しもにとって、自分の視点が「ふつう」の水準です。
 自動車教習所に通っていた頃、教官から「自分の家で親の車を見て勉強してください」というようなことを言われた際に、「誰の家にも車があると思うなよ」と内心で反発しておりました。これも今にして思えば、「ふつうは家に乗用車があるもの」という水準にあわせての発言でしょう。
 あるいは、大学の頃の知り合いのお金持ちのお嬢様が、何の気なしに、自慢話(に聞こえる)だったり、他人を見下した発言(に聞こえる)を多くしていたのも、「ふつう」の水準の違いによるものでしょう。


 十人十色、千差万別、多種多様、ダイバーがなんちゃらかんちゃら……。表現はともかく、人ひとりにひとつの「ふつう」があるものです。
 長く生活を共にしていたとしても、視点が違えば感じ方は変わります。この視点というのは、文字通りのものも指します。身長の高低で視える世界が違えば、物理的な視野や手の届く範囲が違ってくるわけで、生活に対する不便や工夫といったものが発生します。


 産まれた時点で誰もが別個の「ふつう」を抱えて、理解し合ったつもりですれ違って、ただただ孤独に生きるのです。人間は相互不理解の生き物です。

不理解を理解して折り合いをつける

 繰り返しになりますが、米を売るほど貯蔵しているのに売ってくれないというセンスのないジョークにつきまして、それなりに腹は立つわけです。しかし、これも「ふつう」の水準の違いからくるものとわかっていれば、折り合いもつくものです。怒りのゲージも100が99.9ぐらいには下がるでしょう。

 相手と自分の視点や価値観が違うということは、当たり前のことです。当たり前すぎるから、忘れてしまう瞬間があります。相互不理解が前提にあるのに、相手が自分に配慮した言行をとって当然であると勘違いしてしまいます。自分だって、常に万人に配慮して振舞えているわけもないのに。

 なので、100の怒りを99.9に下げるつもりで、ほんの少しだけ相手の視点や立場というものに思いを巡らせてみるのもよいでしょう。……と、文句ばかりは優しそうですが、結局は「他人同士はわかりあえない」という話です。
 
 かくいうわたしは、ご存じの通り、根に持つ質ですので、相手の「ふつう」の水準云々を踏まえた上で、恨み辛み憎しみ怒り等々を長く保持します。所詮、100が99.9になったところで、端数切り上げで100なのです。「それはそれとして、米を元の値段で買えるようにしてくれ」に着地します。

 理解をしようと、相手の思考の過程を推測してみても、わたしの「ふつう」の埒外ですから、やはり真には答えを得られません。相手のことを考えることに意味はあっても、相手のことを理解することはできません。持っている「常識」という材料が違えば違う程、相手の意図と自分の推測の乖離は大きくなります。

 持てる者は持たざる者を理解できなくて当然です。持たざる者だって、持てる者を理解できないのですから。

コメント

タイトルとURLをコピーしました