冒頭文
おはようございます。いつまでも心に枯れない桜、典藻キロクです。
典藻は人間嫌いを公言している一方で、その人間が生み出したコンテンツに好きなものは多いです。
そんな好きなもののひとつとして、「ギャルゲ」があります。
ある種で人生の指針になっていると言っても決して過言ではないぐらいの大切な思い出になっています。
今回はそういった話です。
ギャルゲってなんだ
まず、記事内で何を指して「ギャルゲ」と呼ぶのかについてです。
ギャルゲ、ギャルゲってなんだ。ふりむかないことさ。
お決まりの冗談はさておき。
典藻がこの言葉を用いる場合は、大雑把にではありますが、男性主人公が複数人のヒロインに囲まれている(主に)学園生活を疑似体験するゲームを指します。
「恋愛シミュレーション」と呼ばれるジャンルのものです。シュミレーションではなくシミュレーションです。間違えがち。いえ趣味な作品群ではありますので、ある意味シュミでも間違ってはいないのでしょうか。
更にそこに成人向け要素が加わったものを「エロゲ」と呼んでいます。あくまで個人的な呼び分けですので、ご了承ください。
2007年頃にコンプティークで読んだ記事の中では、この手の呼び分けについて触れられているものがあったように思います。
「エロゲ」よりも内容が過激なものを「美少女ゲー」と呼ぶと書いてあった気もしますが、参照すべきものが手元にないので不確かです。
とりあえず、今回の記事内では恋愛を主題として描いている主人公が男性のゲームを「ギャルゲ」。それに成人向け要素が加わった年齢制限付きのものを「エロゲ」と呼ぶことにします。
ちなみにギャルゲという呼称でありながら、その手の作品に必ずしもギャル属性のあるキャラクターが登場するわけではありません。
ギャルゲとの出会い
出会いというのが何を指すのかによりますが、存在を認知した事を呼ぶのなら、その出会いは中学時代。
今よりもさらに考えの浅かった中学時代の典藻は、ギャルゲの存在を知った際に「食指も動かない」などと気取っておりました。
しかし、一般的にこの文脈での出会いとは、その存在に直接触れることを指すものでしょう。
そういった意味での出会いであれば、高校1年生の冬頃がそうです。たしか、多分。
きっかけは既に記憶も曖昧でして、はっきりしたことはわかりません。
当時観ていた「CLANNAD」が好きだったから、大きい括りで見てこれとジャンルを同じくするギャルゲの作品群に触れてみたくなったのではないかと思います。
しかし、その割に初めてプレイしたのは「D.C.」の廉価版パッケージでした。PS2移植版です。同じくその頃に放送されていた「D.C.II」を観て、そのストーリーに繋がる前作を触ってみようという考えだったのではないかと思考トレースします。
初めてのギャルゲは衝撃的でした。
顔も見えない声も無い主人公は作中の老若男女から一定の信頼を得ている、人間が手から和菓子を出す、ヒロインが揃いも揃って皆かわいい、各ルートへの分岐により1つの世界観での10個以上の平行世界が描写される、サスペンスやバトルでなく恋愛を主軸に置いたストーリー、システム音声を任意のキャラクターのものに設定できる……。どれもこれも初めてのことで、あっという間にその魅力にとり憑かれていました。
初めてであるということ。つまり右も左もわからず不慣れということ。
すべてが新鮮でキラキラして見えました。
ギャルゲは聖典、人生の教科書
当ブログでも折に触れて言っているように、典藻はギャルゲを「聖典」や「人生の教科書」と称しています。
学ぶこともありましたし、目標とすべき存在も得ました。一時は心の救い、心の支えになっていました。当時の典藻にとって、ギャルゲはまさしく聖典といって差し支えない存在でした。
その振る舞いを指針にしたこともありました。
その口癖を真似てみたこともありました。
そのひた向きさに憧れてもみました。
思い出話をすればまた記事が無駄に長くなってしまいます。長い話は伝わらない。
わたしはヒトならざれど、ヒトは過去に学ぶもの。わたしもまた学ぶもの。
「D.C.」から始まった典藻のギャルゲ歴ですが、特に聖典としての存在感が大きいのは続編の「D.C.II」です。
義之くんたちに恥ずかしくない人間になりたいと思いました。何をしてよいかわからないけどとりあえず体を鍛えようと筋トレや走り込みをしたりしていました。
(この時はまだ)体を動かせば悩みも薄れるもので、徐々に気持ちも明るくなっていきました。
クラスに居場所がないと思っていたわたしですが、同好の士……つまりギャルゲ好きを公言していたクラスメイトに話しかけたことで、高校最後の1年間は「友人がいる高校生活」を送ることになりました。
(人間関係を維持できないわたしなので、高校を卒業してすぐに疎遠になってしまいましたが。)
この体験から、居場所がほしければ、或いは人から好かれたければ、積極的に他人に関わっていくことが必要であることを実体験として得ました。成功体験つきだったのが、良くも悪くも後の人生に影響しているように思います。
……積極的に好意を口に出して伝えるというのが正道だと思い込んでいたが為に終身不名誉ストーカーになったことを考えると、誤った成功体験だったかもしれません。
それはそれとして、少なくとも高校時代の典藻を前向きにさせてくれたのは、まぎれもなくギャルゲという聖典でした。
ギャルゲがあったから典藻の高校生活は好転しました。ギャルゲがあったから物事を多角的にみる癖がつきました。ギャルゲに触れていなければ、今こうしてブログを書いていることもなかったでしょうし、その他諸々の形で作品を生み出そうと試みることはなかったと思います。
世間の目は冷たい
そういったわけですので典藻にとって「ギャルゲ」は素晴らしい存在で、感謝こそすれ軽蔑などできようもありません。
とはいえ、世間の目は冷たいです。
広く創作物という括りでみても他に比べて軽く、そして低く、とかく「下」に見られがちなジャンルであると思います。
なので、わたし自身、聖典と呼びつつも現実で「わたしギャルゲが好き!」と明かす相手は限られます。相手を選ばないと、趣味を打ち明けただけでよくない目で見られますからね。
職に貴賤がないというのなら、物書きにもまた貴賤はないでしょう。
そして生み出されるジャンルにも差異はあっても上下は無いのではないかと思います。
作り手の伝えたいこと、受け手が感じて学んで考えること、それらが結果としてどう出力されるのかということが大事なのではないかと思うのです。
しかしやはりやるせなく。
「恋愛」ならギャルゲ風情はドラマや映画や少女漫画と比べるべくもなく見下されます。
単なる「娯楽」としてみてもギャルゲは気持ち悪い趣味としか見られない。
いったい何の違いがあるのでしょうか。
少なくとも商業作品として世に出ているのなら、いずれもプロの手による創作物です。ギャルゲだろうと純文学だろうと、個々人の好き嫌いや、同じく個々人の判断による出来不出来はあれど、存在そのものに優劣があるわけではないでしょう。
どこかの誰かにとっての「聖典」「人生の教科書」「大切な思い出」とわたしにとってのそれらに、どうして貴賤や上下、優劣の判定が為されなければならないのでしょうか。
ええ、わかっていますとも。
わたしがギャルゲを聖典と呼ぶ思想の自由があるように、わたしの大切なものを見下し蔑み嘲り唾を吐くのもまた誰かの自由なのです。
むしろ何が悪いかといえば、ギャルゲの社会的地位を上げることのできないわたしの無力さこそが悪でしょう。
わたしに社会的信頼があれば、「わたしにとってギャルゲは人生の教科書で……」という話をしたなら「『あの』典藻がそう言うのなら、ギャルゲとやらも案外捨てたものじゃないんだろうな」と思わせることが出来る筈です。
それが叶わない以上、信頼という力のない我が身こそが悪いのです。
かつてのわたしは、いつかギャルゲ好きを自信を持ってカミングアウトできるような「信頼ある大人」になることを目指していたように思います。
「生徒会の一存」シリーズ(あえて正式名称でない方のタイトルを用います)の主人公である杉崎くんはわたしの理想の形のひとつでした。
残念ながら、彼のようには成れませんでしたし、彼や彼らを支えるような大人にもなれませんでした。
よきヒトになって、わたしの聖典がたしかに聖典であったと証明したかったなあ。無念です。
聖典と呼ぶ割には長らく触っていない
熱心に聖典と呼び崇めるギャルゲですが、実のところ、もう随分と長い間触っていません。
先日ブログ記事に画像を引用する為に一時起動はしましたが、思えば10年以上振りの起動でした。
わたしが終身不名誉ストーカーになった頃から、集中して何かに取り組むという事ができなくなりました。
ギャルゲはより大きな括りで言えばノベルゲームの一種です。ノベル、つまり小説。それを読めるほどに集中力は続かなくなりました。
最後にギャルゲをきちんと読み終えてから、既に10年以上が経ちます。
聖典を読めなくなったから、今こんなにも邪心が滲み出ているのか。それとも逆説的に、読まなくなっても心にずっと残り続けるからこその聖典なのか。
まあいずれにしても、わたしにとって大切なものであることに変わりはありません。
いつかまた、死ぬまでにもう一度ぐらいは、思い出の作品を通しでプレイしてみたいですね。
おわりに
以上、ギャルゲとわたしのお話でした。
実際のところ、聖典であったり人生の教科書であったりと呼びながら、ただ心の支えにしているだけで、わたしはその教えを体現できてはいません。
人に好かれるヒトになりたくて、なれなくて、なあなあで生きた成れの果て。
ですが、ギャルゲに出会ってなければそもそも今を生きていなかったかもしれません。
救ってもらえた恩返しに、せめて「これだからギャルゲなんかを好きな奴はろくでもない」とは思われないよう、よき人にはなれずとも高潔に生きていきたいものです。
未だにそんな叶いもしない目標に囚われる正に「あさきゆめみし」わたし。
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