おはようございます。珍しくやや反省気味の典藻キロクです。
ところで、「反省」と聞いてサルを連想するか否かである程度年齢がバレてしまうように思います。ジェネレーションギャップ。
さて、何についての反省・自戒であるかといえば、「わたしが出来ることだからといって、誰しもが出来るわけではない」という学びを得たという話です。
口癖というほどではないのですが、わたしは自分の仕事や成果について言及される際に、「わたしに出来るのだから、誰にだって出来ることですよ」と返すことが多いです。これはどうやら相手方に謙遜や自虐として受け取られていたらしいのですが、わたしとしては紛れもない真実であり当然のこととして口にしていたものでした。
記憶を遡る事、n年。あれは小学生~中学生の時分。当時からわたしは諸々パッとしなかったもので、クラス内外の男女数人より罵倒や侮蔑の感情を向けられることが常でした。
本題から話が逸れるので詳細は省きますが、そういった彼ら彼女らからの影響か、当時のわたしは「自分は底辺の能無しで、なんにもできない」という自認を根底に持つようになった……と分析します。うすぼんやりとではありますが、その頃から、「年の頃が同じぐらいで、傷病や使用する道具といった条件に大差がない」という前提ならば、自分の出せる成果は常にワースト1になるのだと信じていました。実際、運動面や芸術面での成績はふるいませんでしたしね。ペーパーテストでは学年内で中の上ぐらいの点数を採ることが多かったですが、これも「他の人は本気を出してないだけだろう」と考えていました。それはそれとして、点数という結果だけを切り取れば底辺ではなく中の上だったので、嬉しくもありましたし驕ることもありました。
そのような考え方の延長にある現在のわたしですが、先輩後輩といった同僚に対して「わたしにできる程度のこと」をどうしてやらないのか=本気にならないのかという不満を募らせることが多くなっていました。かつての世界が底辺の能無しであると規定したわたしが出来るのですから、わたし以外の人間様方におかれましては、間違いなくわたし以上に出来るものと確信しておりました。
わたしが新たに何かを出来るようになったとして、それは誰しもが当然にできることであるし、わたしが自分なりに上出来に思える成果を出したとして、それは他の人が出来るけどやらないだけのものだと思っていました。
ええ、しかしですね、上司から「いや、お前ができるからって皆が皆できるわけじゃねえよ」と笑われてしまいました。嗤うではなく笑うです。やや失笑のニュアンスはあったかもしれませんが。
(人格面の良し悪しや好き嫌いはあれど)能力的には常にわたしより優れていて素晴らしいものなのだと信じていたヒトが、そうでもなかったと知りました。驚きですね。同時に若干の失望もあります。かつての彼ら彼女らは絶対的な優位性があるわけでも無いくせに、散々見下してくださったのですね。
そう言われてみれば、わたしの中の前提と現実に矛盾が見つかる事も多々あったように思います。特に気にしていませんでしたが。
つまり、「どうして本気でやらないのか。真面目にやらないのか」とわたしが気を揉んでいた同僚たちは「やらない」のではなく「できない」らしかったわけです。「できない」ことを「できる」前提で要求してしまったのは、非常に申し訳ないことでした。
学びを得たと共に自戒すべき事項ではありますが、かといってすぐに改められる癖ではありません。染みついた癖や生き方が簡単に拭えるのなら、その都度修正していって、わたしにだって友人がたくさんできて老若男女からモテモテになる人生があったでしょう。でも、そうはなっていません。簡単に生き方は変えられないからです。
年齢に関わらず、肩書に関わらず、何なら家ネコ家イヌにでも、他人に対して基本的に丁寧語で話す癖は、上記の考え方の癖があったからです。誰が相手でもわたしより上位の存在やその関係者であると思っていたからです。意識しなければ、妻と母以外に対してタメ口というものを使うことはありません。
なにかしらの競い合いに勝ったところで「対等な条件で相手が本気だったら勝てるわけがない」=「これは本当の意味での勝ちではない」という気持ちが胸につっかえていたのも、そうです。
まあまあ長い期間持っていた「歪み」ですので、急に「それは違う」と言われても直りません。信じていたものが間違っているという指摘ですから、大げさに表現するのなら「お前の信じる神なんていない」と言われたような衝撃だと思います。
もっと悪意的に言えば「オマエ頭おかしいよ」になります。いえ、わたしが「頭おかしい」部類であり正しくないというのは知っているので、これに関しては特に何も感じませんが。ただ、言われたところで直るものではないというのは違いありません。
いもしない神を信じること、頭がおかしいことというのがわたしにとっての常態であり、わたしの構成要素であるのですから、これを急に取り除けば、それはわたしの人格ではなくなるでしょう。
とはいえ、認識に誤りがあるというのは間違いないらしいので、今後は「わたしが出来ることだからといって、誰しもが出来るわけではない」というのを念頭に置かなければなりません。対人コミュニケーションに齟齬が起きてしまいますからね。まさに記事タイトルの通り、自戒です。今回、誤認が明らかになったことで、わたしの自覚する「頭のおかしさ」の中にまたひとつ、新しい項目が増えました。とさ。
コメント