急に思い出したことがあります。いえ、厳密には普段から常に薄く意識していたことではありますが、わたしは「金持ちの子ども」が好きではありませんでした。なにも積極的に害してやろうなどとは思いませんし、何ならばそもそも人間全体が嫌いなのだから、貧富に関わらず人間である以上は好きであるわけがないのですが。
創作物における架空の人物としての「金持ちキャラ」はむしろ好きな部類です。スネ夫や知世ちゃんやなすの先輩に悪感情など抱きようもありません。エピソードの導入や舞台装置として便利であったり、常識から乖離しているというキャラクター付けから個性の際立った設定になりやすいあたりから、「濃い味」が好きな身としては肌に合うのです。
ここで話したいのは、現実における「金持ちの子ども」のことです。才覚を活かして幼く/若くして稼いでいる「金持ち”な”子ども」ではなく、生まれながらにして裕福な「金持ち”の”子ども」です。自分の技量や戦略で引き寄せたカードでなく、ただ最初に配られた良い手札を見せびらかすだけの人種です。
冒頭にて、好きではないなどとお行儀よく表現しましたが、打ち明けて言えば嫉妬心と劣等感からくる負の感情を持っているということです。
これについて考える時に、真っ先に思い浮かべるのは大学のときに同学年にいた「お嬢様」です。現実のお嬢様は語尾に「ですわ」なんてつけないし、別に髪の毛くるくるしていないし、家にセバスチャンがいたりはしません。しかし確かにお金持ちのお嬢様です。
とはいえ、頭の出来や素行がアレなわたしが入れる程度の大学に通っていたわけで、あくまで、中流以上の収入があったり土地持ちだったりするというぐらいのお金持ちです。まあ、金銭的に豊かなことに違いはありません。
彼女の言で今でも覚えているのが「貯金が100万円になった」という旨のものです。その当時で「アルバイトをしたことがない」「親や親戚からのお小遣いやお年玉を貯めた」というような話だったかと思います。一方でわたしは……というか多くの学生はアルバイトをしながら学費だったり趣味費だったり、あるいは生活費だったりを工面していたわけです。彼女の経済状況は羨ましい限りでした。
アルバイトして貯めたお金で、運転免許を取り、就職先への通勤に必要な自動車を買い、就職に必要だった資格を取り、今も毎月奨学金を返して……と、大きな出費や継続的な出費の度にあの「お嬢様」はそれらの資金を親類が用意してくれたのかと思い、嫉妬していました。同時に、この世に生を受けたスタート時点で、大差がつくことがあるものなのだと実感していました。
一方が働く為に必要な免許などを取る為のお金を稼ぐ為に働いている間に、一方はその時間を労働でも勉強でも趣味でも自由に使えると考えれば、そりゃあ財産が潤沢な方が豊かに生きられるに決まっています。
彼女のたちが悪いのが、おそらく無意識に相手に自身に優位性を示す癖があったことです。昨今よく耳にする言い方をするのなら、マウントをとりたがる性格だったように思います。その光景を見るたびに、「それはあなた自身の力で得たお金ではないのに」「それはあなた自身でなく、親のお金の自慢でしかないのに」と思いつつ、それを指摘する程の仲でもないので、モヤモヤとした気持ちを抱えたまま今に至ります。
一方で、金銭的な豊かさに反して心が貧しい……などということもなく、悪癖はあれども「ふつう」によい方でした。考えてみれば、お金の自由があるということは、それだけ経験できることの選択肢が多いわけで、心を豊かにする機会も多いわけですから自然なことではあります。「ふつう」によい人だから、あからさまに嫌うこともできず、モヤモヤも晴れることはありませんでした。
なので、というには浅い動機ですが、ともかくわたしは「金持ちの家に生まれた子ども」によい感情を持っていませんでした。
「でした」と過去形であるからには、今は認識を多少改めてはいます。「金持ち」など所詮属性のひとつでしかなく、これひとつで人格が決まるものではありません。
現在のわたしは職業柄、色々な方の家にお邪魔したり、その方々の人生のあらすじと終盤とを見聞きする立場にあります。少なからず、見識の広がる仕事です。文字通りに足の踏み場の無い家もありますし、臭気でえずく家もありますし、害虫の代名詞であるアレが闊歩する家もあります。一方で、お屋敷のような家もあれば、なんかよくわからないけど高級そうな調度品のある家もありますし、でっかい犬がワフワフ言いながら仕事中のわたしに付いてまわってくる家もあります。
そのような様々な金銭事情や住環境にあって、そこに住まう人々が、その貧富によって人格の方向性が一致するのかといえばそんなこともなく、心の豊かさと金銭的な豊かさに相関は無いのでないかという肌感覚です。家が荒れていても他人を常に慮る方もいらっしゃいますし、お金があっても何か常に余裕なくとげとげしい方もいらっしゃいます。
まあ、あるお屋敷のような家で会った方々は言葉遣いから所作まで素晴らしく品があり、「別世界の住人だ……!」と恐れおののく経験をしているので、イメージ通りの「お坊ちゃま」「お嬢様」も確かに存在はしています。ノーブルでロイヤルです。「ボロは着てても心は錦」を座右の銘にしているわたしですが、あれを見ると本物の「錦」には遠く及ばないのだなあと思い知らされます。イミテーション・ニシキです。
先の彼女のみならず、わたしの好かない「金持ちの子ども」は何故あんな感じなのか。
当然に彼ら彼女らなりの苦労や苦悩というものがあって、それを礎に「親の財産」を誇っているのかもしれません。しかし、他人の人生などというものは、語られなければ知れない以上、傍から見ればただの七光りでしかありません。親の威を借る子どもです。
以前に書いた「プリンセスの条件」の記事の内容と同じような結論ですが、宝飾品や「親の財産」という外付けの魅力の多寡でなく、高潔さのような内面の魅力の有無で差のつくものかと思います。そして、外付けの魅力と、それを纏って見劣りしないほど輝く内面と、身分に相応しい振る舞いがあわさってこそ、ようやく創作物で見るイメージ通りの「お坊ちゃま」「お嬢様」になるのだなあ、と。
まあ、わたしが「金持ち」になることはありませんし、ましてや「子ども」を持つことは猶更あり得ないので、わたしの好かない「金持ちの子ども」については、どこまでいってもあくまで他人事です。他人の在り方を自分好みに操作したり改造したりするような権限など持ち合わせておりませんので、お互い好きなようにやるのがよいと思います。彼ら彼女らは好きなだけ七光りをひけらかせばよいですし、わたしもその分だけモヤモヤイライラさせて頂きます。
知性体同士、知性体らしく、知性体ゆえの相互不理解でいきましょう。
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